【野球】「執着心」野村克也さん【シンポジウム】「大腸がん 最新情報を知ろう」田中信治さん(広島大学大学院医歯薬保健学研究科内視鏡医学教授)

2013年10月18日

【野球】「采配」落合博満さん

P74
采配は結果論。
事実だけが歴史に残る


私の采配について何かを論じようとする時、必ずと言っていいほど出てくるのが2007年の北海道日本ハムとの日本シリーズ第5戦のことだ。8回まで一人の走者も出していない先発の山井大介を、9回に岩瀬仁紀に交代させた采配に関して、である。

メディアなどでは「幻の(山井の)完全試合」「山井交代の賛否」などと騒がれた。

結論から言えば、私は今でもこの自分の采配を「正しかったか」それとも「間違っていたか」という物差しで考えたことがない。ただあるのは、あの場面で最善と思える決断をしたということだけである。

(中略)

私の中にあったのは、何としてでも日本一を勝ち取ろうという思いだけだった。

(中略)

なぜなら、この日本シリーズの流れを冷静に見ていった時、もしこの試合に負けるようなことがあれば、札幌に戻った2試合も落としてしまう可能性が大きいと感じていたからだ。

(中略)

プロ野球OBの立場で言えば、多くのファンと同じように、私も山井の完全試合を見たかった。

記録やタイトルが選手を大きく成長させることも身をもって知っているだけに、「せめて3、4点取っていれば、山井の記録にかけられるのに」と思ったのも事実だ。

しかし、私はドラゴンズの監督である。

そこで最優先しなければならないのは、「53年ぶりの日本一」という重い扉を開くための最善の策だった。あの時の心境を振り返ると、「山井は残念だった」というよりも、「ここで投げろと言われた岩瀬はキツいだろうな」というものだったと思う。

(中略)

この采配については、直後から様々な意見がメディアを賑わせた。

私の采配を支持した人には日本シリーズを制した監督が多いな、ということ以外、メディアや世間の反応については、どんな感想を抱くこともなかった。

どんな展開でも、采配というものは結果論で語られることが多い。

事実、あの采配も、万が一負けていたら、それこそ私は袋叩きに遭っていただろう。いや、違った采配をした結果を現実として見られない以上、結果論でしか語れないという側面が大きい。監督が私でなかったら、山井の完全試合で日本一になれたのかもしれない。あるいは、山井が打たれて逆転され、私が懸念したように札幌でも破れて日本一を逃したのかもしれない。

しかしーー。

すべては、あの場面で私が監督として決断し、その結果として「ドラゴンズは日本一になった」という事実だけが歴史に残るのだ。

責任のある立場の人間が下す決断ーー采配の是非は、それがもたらした結果とともに、歴史が評価してくれるのではないか。ならばその場面に立ち会った者は、この瞬間に最善と思える決断をするしかない。そこがブレてはいけないのだと思う。

「こんな判断をしたら、周りから何と言われるだろう」

そうした邪念を振り払い、今、この一瞬に最善を尽くす。
監督の采配とは、ひと言で言えば、そういうものだと思う。

今は、「医師受難の時代」だ。
医師は、問診や検査に基づき、合理的に患者の病状を切り分け、病因を特定し、最善と判断した治癒を行う。
しかし、患者は人間であり、一人一人異なる肉体、病状、病因を持っているばかりか、絶えず変化している。
病状の切り分け、病因の特定、最善治癒の判断は、詰まる所確率論に拠る二者択一であり、オプションが在り得る。
ゆえに、医師は、いかに合理的にそれらを進めても、結果から遡って各々の選択が正解だったか問われる可能性が在り、今は結果が悲劇だとその旨忽ち訴えられてしまう。
医師の多くは、私たちが思うほど多くない収入で、自分の身と家族を犠牲にして日夜働いており、その挙句にかくして結果論と情緒で訴えられてしまっては割に合わず、然るに今は「医師受難の時代」という訳だ。

落合博満さんのお話から気づかされたのは、今は「プロ野球監督受難の時代」でもある、ということだ。
落合さんが、中日の監督として、2007年の日本シリーズ第5戦9回表、完全試合目前の山井大介投手を岩瀬仁紀投手へ交代した采配は、ご本人も仰るように、勝利を一義に託されたはずの現場責任者としての、確率論に拠る最善の判断に違いないが、チームが見事勝利し、結果が吉と出たにもかかわらず、遡って判断の正解性を問われては、それはもはや嫉妬と言いがかりであり、同情するほか無い。
現場は、他と同一局面があり得ないことに加え、絶えず動いており、判断が刹那に求められる。
現場責任者の判断は、基本合理と確率論に基づく最善なそれであって然るべきであり、それを結果論と情緒で正解であったか問うのはナンセンスかつ酷だ。

その他、落合さんのお話から気づかされたことが二つある。

一つは、「勝負の方程式」はあり得るが、よく言う「勝利の方程式」はあり得ない、ということだ。
先述の通り、合理と確率論で最善を重ねていけば確実に勝負になるが、何をどうすれば確実に勝利するということはない。
つまり、勝負の十分条件はあり得るが、勝利の十分条件はあり得ない、ということだ。
勝利を得るには、勝率を高める以外なく、ついては、「勝利の方程式」を無いものねだりするのではなく、合理と確率論で最善を重ねる「勝負の方程式」に従順になるのが最善だ。

もう一つは、現場責任者は、判断の真の評価を後世に託し、その苦渋を癒している、ということだ。
現世利益を一番に望む人は、現場責任者として不適格なのかもしれない。


P95
大切なのは、勝ち負けよりも勝利へのプロセス

監督としてドラゴンズをリーグ優勝や日本一に導いた。野球殿堂にも入った。本当に充実した野球人生だ。しかし、それだけで自分が人生の成功者だとは思っていない。

プロ野球選手という仕事は、目立つ実績を残した者よりも、何の実績も残せずに消えていった者のほうが圧倒的に多い。それでも、違う世界で名を成した人は大勢いる。その人に向かって「プロ野球の負け組」と言う人がいるだろうか。むしろ、当の本人がプロ野球選手として大成したなかったという事実を上手く利用し、悔しさをバネに、世の中を渡っている「勝ち組」ではないだろうか。

人生はどこでチャンスが訪れたり、自分を生かせる仕事と巡り合えるかわからない。そう考えれば、仕事で思い通りの実績を上げられなかったり、希望の職種ではなかなか採用してくれる企業がなかったり、志望校に合格できず浪人している人たちも、決して「負け組」ではなく、勝利を目指す道の途中にいる人だと考えられる。

(中略)

つまり、道の先にある「勝利」の定義とは、人それぞれなのだ。

もっと言えば、「勝利」の正体が何なのか、すべてわかった上で突き進んでいる人などいないのだと思う。だからこそ、大切なのは、現時点の自分が「勝ち組」なのか「負け組」なのかと自覚することではなく、ただひたすら勝利を目指していくこと。そのプロセスが人生というものだろう。

要するに、落合さんのお考えは、「勝利は『得るもの』というより、人生で最後に笑うために『目指すもの』」、ということだろう。
たしかに、人生は長く、自分のニーズや興味関心も絶えず変化する。
「得られる」目先の勝利が全人生に与える好影響は知れており、それよりも、遠い道の先の見えない勝利を終生「目指す」方が、全人生に与える好影響は大きいのかもしれない。


P175
現場の長は、「いつも」ではなく「たまに」見よ

コーチングの基本は「見ているだけ」だと、前著『コーチング』で述べた。

監督を続けていると、この考え方にも応用編があると実感している。

新たに入団してきた新人選手や成長途上の選手については、コーチと私の間で、「本人がアドバイスを求めてきたら、こう指導しよう」という方針は決めてある。その上で、コーチは毎日の練習をじっくり観察し、必要があれば選手にアドバイスをしていく。では、現場の責任者である私はどうするか。「たまにしか見ない」ことが大切なのではないかと思っている。

スポーツの世界でもビジネスの世界でも共通しているのは、現場の長がいる時は組織全体の雰囲気がピリッとすることだろう。普段はなあなあでやっているという意味ではない。ドラゴンズの練習は、私が姿を見せなくてもしっかり行なわれていた。だが、第三者からは「監督がいるのといないのとでは、練習の雰囲気がまったく違いますね」と言われる。これは、どのチームでも、誰が監督でも同じようなものだと思う。

私があまり練習を見ないようにしたのは、そうしたピリピリした雰囲気を無用に作りたくないからだ。私が練習を見に行くと、選手よりもコーチに緊張感が走り、普段より練習時間が長くなってしまう。そんな状況が続くと、選手もコーチも身が持たないだろう。さらに私は、練習が終わったあともコーチ陣に「今日はどうだった?」といった類の質問はしない。

「やるべきことさえやってくれれば、その方法やかける時間は任せるよ」

そう伝えておかないと、私が現場に行かなければ何も判断できなくなってしまう。その代わり、練習に出て行った時は遠慮せず徹底的にやる。

「おまえが好きなだけ打ち込んで構わないよ。時間を気にせず、納得するまでやりなさい」

選手にはそう言葉をかけ、チーム付のマネージャーに練習場を使える時間を確認し、必要があれば延長してもらう。選手もコーチも、私の姿を見つけると「今日の練習は長くなるな」と覚悟するらしい。

それでいいのではないか。

私が現場にいるのか、いないのかを練習のメリハリにすればいいし、選手たちが自分自身で責任を持って練習に取り組むことが大切なのだから。

ただ、選手はしっかりと練習しながらも、「取り組んでいる練習は自分に合っているのか」とか「練習の成果は出ているのか」と感じ、私にチェックしてもらいたいと考えることがあるかもしれない。私は選手のバッティングフォームが以前に比べてどう変化したのか、体の使い方がどうなっているのかを見ることになる。その際、変わるべき部分と変わってはいけない部分を見極めるためには、毎日見ているよりも何日かおきに見たほうがいいということに気づいた。

普段の練習ではコーチがしっかり観察しているから、選手が私にアドバイスを求めてくるのはフォームの修正など大きなテーマであるケースが多い。つまり、見落としがあったり、間違えたアドバイスをすることが許されない状況なのだ。それだけ責任の重いアドバイスをするには、その選手を四六時中見ている目よりも、たまに見ている視点が必要なのではないかと感じている。

このように現場に無用な緊張感を走らせないためにも、自分が的確なアドバイスをできるようにするためにも、現場の長は一定の時間をおいて現場を見ることが大切だと思う。

「うちの監督はあまり練習に来ないよな。どこかで遊んでいるんだろう」

選手からそう思われている監督でいいのだ。

「組織の責任者足るもの、頻繁に現場を訪れるべし」との風潮ができたのは、日産のカルロス・ゴーン社長が「ゲンバ」というフレーズを多用し、メディアに訪問のさまを披露してからの様に思えるが、ゴーン社長の様な「現場に通じていない責任者」の現場訪問は、本質的には本人と組織のPRを超えず、現場の人たちからすると迷惑以外ない。
組織の責任者足るもの、本当に現場を頻繁に訪れたければ、現場に精通し、具体的に現場の役に立てるようになることが先決だ。

しかし、組織の責任者の一番の任務は、現場を訪れることでは決してない。
責任者は、現場を訪れ、それらしい振る舞いをしていると、仕事をしている様な気持ちになるが、それは誤解だ。
責任者の一番の任務は、組織の目標(ビジョン)とその戦略を策定し、側近の参謀から現場の末端まで浸透、合意形成させることであり、現場訪問はそれらを果たす一手段に過ぎない。
然るに、現場訪問に時間の過半を割いている責任者は、自らの本分を果たしていない可能性も高く、落合さんのお考え通り、「責任者足るもの、現場はたまにしか見なくて丁度良い」のかもしれない。



采配
落合博満
ダイヤモンド社
2011-11-17




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