2015年08月

2015年08月31日

【邦画】「八月の狂詩曲」(1991)

[ひと言感想]
終におばあちゃんが正気を失ったのは、無意識裡に「忘れていた」戦時の辛苦の最たるを思い出したからでしょう。
人は、無意識的か意識的かは別として、艱難辛苦を適宜「忘れる」ことで、正気を保つ生き物なのでしょう。
人は「忘れる」ためにも、子孫を儲けるのかもしれません。


八月の狂詩曲 [DVD]
出演:村瀬幸子、吉岡秀隆、大寶智子、鈴木美恵、伊崎充則、リチャード・ギア、井川比佐志、根岸季衣
監督:黒澤明 
SHOCHIKU Co.,Ltd.(SH)(D)
2011-12-21




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2015年08月28日

【第56期王位戦第五局】羽生王位、紙一重の勝利で五連覇を果たす

[ひと言感想]
毎度の如く、局面が次第に「挑戦者優勢」から「羽生優勢」に変化していったのはさておき(笑)、なんと、広瀬章人挑戦者が113手目に▲9六香ではなく▲7七玉を選んでいれば、「羽生勝勢」から「挑戦者勝勢」に逆転した可能性が、更には、羽生善治王位の王位防衛に待ったがかかった可能性が、あるとのこと。
「勝利と敗北、成功と挫折は絶えず紙一重であり、プレイヤー足る者、最後の最後まで自戒を絶やしてはいけない」。
毎度の如く(笑)、不肖私、本事項の何たるかと意義を思い知りました。


★2015年8月26、27日催行
http://live.shogi.or.jp/oui/
http://kifulog.shogi.or.jp/oui/56_05/
http://live.shogi.or.jp/oui/kifu/56/oui201508260101.html
http://www.topics.or.jp/worldNews/worldCulture/2015/08/2015082701001740.html (魚拓

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2015年08月27日

【邦画】「紙屋悦子の青春」(2006)

[ひと言感想]
悦子と永与が歩んだ「他者の遺志を継ぐのが道理かつ務め」という青春は、正直現代人の私には想造できません。
しかし、生き残りの二人が共に歩んだこの青春は、老後の描写から逆算するに、そう捨てたものではなかったと想像できます。
不本意な人生を本意なそれに変えられるのが、人間の一番の知恵と生命力かもしれません。


紙屋悦子の青春 [DVD]
出演:原田知世、永瀬正敏、松岡俊介、本上まなみ、小林薫
監督:黒木和雄
バンダイビジュアル
2007-06-22




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2015年08月26日

【邦画】「日本のいちばん長い日」(1967)

[ひと言感想]
終始、既視感が絶えませんでした。
当時も今も日本人は、日本社会は本質的に変わっていないのでしょう。
その他以下、アレコレ深く考えさせられました。

[1]純粋さ、それも、洗脳された思想を基盤とする純粋さは、狂気と紙一重、否、時に同義かもしれない。
[2]他者からの命令は思考停止(放棄)、責任逃れの方便に成る。
[3]未練の本質は過剰な自己肯定かもしれない。
[4]集団の悲劇は個人の善意(良心)に起因し、集団の幸福は個人の犠牲に依存するのかもしれない。


日本のいちばん長い日 [東宝DVD名作セレクション]
出演:笠智衆、三船敏郎、山村聰、加藤武、戸浦六宏、黒沢年雄、石山健二郎、島田正吾、天本英世、井川比佐志、田崎潤、北竜二、小林桂樹、加山雄三、松本白鸚(八代目松本幸四郎)
監督:岡本喜八
東宝
2015-05-20




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2015年08月25日

【医学/人生訓】「『思考の老化』をどう防ぐか」和田秀樹さん

P259
あとがき

現代の日本は「知識社会」であるとともに、「成熟社会」だとも言われている。

この成熟という言葉は勘違いされやすく、「成熟」と思われていることが実は単なる「老化」だった、ということがときどき起こる。

本来、生物学的な意味での成熟とは、生殖に向けて機能が整っていくことだし、心理学の世界で言う「認知的成熟」とは、自分とは別の考え方やグレーゾーンを認められるようになることで、いわば右肩上がりに進歩していくイメージの言葉である。

一方、老化とは、さまざまな機能が衰えていくことだ。

この二つの勘違いとはたとえば「自分の主張をしなくなった」「悟ったような発言が増えた」という中高年に対して、しばしば「成熟した大人の対応だ」「老成だ」などと評価されることである。

果たしてそれが「認知的成熟」なのか「老化」なのかを峻別しなくてはいけない。

ときとして微妙な両者の違いは決めつけて言っているか否かである。

たとえば、和田みつをさんの「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」のような人生に対して悟ったような言葉でも、それが「決めつけ」になっているとしたら思考が老化していることになる。

他にも、世の中でいかにも成熟と受け取られがちなことが、実は老化であることがたいへん多く、このことにも警鐘を鳴らしておきたい。

その最大の要因となるのが、本書で一貫して述べてきた「前頭葉の老化」である。

この二十一世紀は、言うまでもなく前頭葉が若々しい人間こそが主役である。

知識社会がますます発達して「かつて世の中になかった新しい物、サービス」がほとんど唯一の成長産業になった今、旧来型の「言われたことだけを真面目にこなしていればいい」という人間は、ビジネスの世界ではどんどん居場所がなくなっている。

しかもまずいことに、前頭葉をあまり使ってこなかった人ほど、自分の周りの変化に気づくのが遅れがちで、しかも自らが変わっていくのも苦手なのだ

だが、それでも思考が老化しきってさえいなければ、生活習慣や思考習慣を変えていくことで、自己変革も思考の老化防止もまだ間に合うはずである

ビジネス社会での生き残りのため、外見や身体のアンチエイジング以上に、思考の老化を予防していただきたいと思う。

私は誤解の多い人生を送っている人種(笑)だが、近年多いパターンは、ネットメディアで見知った後に実際に私にお会いくださり、「思っていたより全然ざっくばらんで面白い人ですね」など、ネットとリアルの人格イメージギャップに因るそれだ。
たしかに、私はブログにしても、ツイッターにしても「悟ったような」、ある意味、哲学的な発言が多い反面、実際に面と向かってする会話が、全然哲学的でないどころか、基本下世話な発言に終始するため(笑)、私に対する初対面氏のイメージは正に想定の範囲を超えるようだ。(笑)

よく訊かれるので断っておくと、ネットの私も実際の私も本当の私であり、いずれも偽りではない。
では、なぜネットの私は悟ったような発言が多いのか。
自覚している理由は二つある。

一つは、そもそも先ず、下世話な発言を控えているからだ。
私は、ネットメディアにアクセスする主眼を、「情報の収集」と「知見の共有(シェア)」と考えている。
アクセスには相当のリソース(手間暇)が要るのを痛感しているため、主眼の妨げになる下世話な発言を自制しており、結果的に、下世話でない、尤もらしく、悟ったような内容に発言が集中してしまう、という訳だ。

もう一つは、抱いた問題意識と最善解をできる限り言語化(→客観化)、アーカイブ化するよう努めているからだ。
将来、同様の問題に遭遇した時に活用できるよう、それらをとりわけ人間の心理、思考習性にフォーカスして抽象化、普遍化していくと、いかんせん悟ったような発言が多くなってしまう、という訳だ。

なぜ、問題意識と最善解の言語化、アーカイブ化をする際、人間の心理、思考習性にフォーカスを当てるのか。
これは、ここ10年でとりわけ努めるようになったことだが、ひと言で言えば、「さもなくば、問題が真に解決しない(→成功が持続的に果たせない)」と、生業の経営コンサルティングを行う中で痛感、達観したからだ。

正直、約10年前以前の私は、人間の心理や思考習性の類に余り興味が無かった。
理由は簡単で、ひと言「ややこしい」から(苦笑)だったが、そもそも自分という人間が、意識した問題とその合理的な解に良くも悪くも従順な人間だったことが大きい。
だから、たとえば、「痩せたい!」と年がら年中吹聴していながら、とんかつやラーメン二郎(笑)を絶やさない人、折角スポーツジムに入会したのに幽霊or風呂会員に成ってしまう人、折角大枚払ってロードバイクをゲットしたのに部屋のオブジェにしてしまう人、がどうにも分からなかった。
また、生業においても、いついつまでに固定費を減らさなければ、手元のキャッシュが底をつくとエクセルに教わってもらいながら、整理解雇の着手を躊躇う経営者が、どうにも分からなかった。
しかし、当時私は、ようやく気づいた。
私のような人間はレアだ、と。
普通の人は、植木等の「分かっちゃいるけど止められない」を地で行くのが自然なばかりか、それは善悪を超えた、人間という生き物の生来の心理、思考習性の帰趨だ、と。
そして、私は、抱いた問題意識と最善解を、紙の代わりにネットで手軽に言語化、アーカイブ化する際、人間の心理、思考習性にとりわけフォーカスを当てるようになった。





かくして、私のネットメディアでの発言は悟ったような、哲学的なそれが多くなっている訳だが、たしかに、著者の和田秀樹さんが仰るように、それが経験値を高めての「成熟」ではなく、「決めつけ」を旨とする「老化」の現れである可能性がゼロとは言い切れないし、正直、思い当たる所がゼロではない。
この世の困難の最たるは「自分を正視、客観視すること」であり、自分を一番分かっていないのは自分自身だ。
和田さんは本書で繰り返し懐疑思考の意義と励行を唱えてくださっていたが、私たちが懐疑すべき一番の矛先は自分自身に違いない。







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2015年08月24日

【将棋】「将棋世界2015年8月号/創造の原動力[中編]」藤井猛さん

P117
弱いからこその発想

(前略)

【藤井猛九段】
相振り飛車で「菅井流」と呼ばれる仕掛けがあるじゃない。僕が菅井君の名前を最初に聞いたのはそれが最初だったけど、これはどうなの?

【菅井竜也六段】
いい加減な仕掛けですよね(笑)。これは奨励会の級位者の頃、対局中に思いついた仕掛けです。「面白いかも」と思って指したら、結果は快勝でした。この形は、目指そうと思ったら目指せます。相振り飛車で3筋を突いていったら、だいたい相手は向かい飛車に振って矢倉に組んでくるじゃないですか。こちらの形はいつも同じでよくて、わかりやすい。かなり勝っていましたし、長いことやっていたので印象に残っていますね。

【佐藤康光九段】
これはたしかに有名ですね。私も印象に残っています。

【藤井九段】
これって、自玉のそばから仕掛けているでしょう。プロ棋士が仮に思いついたとしても、「まあ、こんな手はないよな」とふたをしてしまう。失礼だけど、当時は奨励会の級位者ということだから、あんまり強くはなかった。弱いからこそ生み出せる柔軟な発想というのがあるよね。強くなればなるほど、目新しいことに対する抵抗が強くて、可能性を閉じてしまう。段位が上がるにつれて、必ずしも強くなっていくとは限らないね。

「菅井流」創作述懐の藤井猛九段の所感、考察は成る程だ。
私は以下咀嚼したが、主旨は極めて普遍で、示唆深い。

「菅井さんが新戦法『菅井流』を創作できたのは、当時まだアマチュアの、実力的、実績的、立場的にまだ『弱い』時分だったこと、つまり、良くも悪くも低経験値で棋風が確立されておらず、固定概念も先入観も、そして、『昔とった杵柄』も『失うモノ』も殆ど無く、新しいアイデアや可能性に貪欲、従順だったこと、が大きいのだろう。
というのも、たしかに、プロが昇段し、『強い』時分&自分に成ってしまうと、良くも悪くも高経験値で棋風が確立し、固定概念も先入観も、そして、『昔とった杵柄』も『失うモノ』も沢山抱えてしまい、新しいアイデアや可能性に頑固、臆病な余り、一層の成長、成功の芽を自ら摘んでしまう嫌いがあるからだ。
『菅井流』の創作のてん末から改めて気づかされるのは、ある意味、弱いからこそ強い、ないし、強く成れるし、強いからこそ弱い、ないし、一層は強く成り難い、ということだ」。

要は、「強く成らなければ、勝てないし、そもそも楽しくないが、強く成ると、別の意味で勝てなく成り、かつ、楽しくなく成る」、ということだろう。
そして、本事項は正に皮肉であり、物事に持続的に熟達、成功するには、それに屈しないだけの独自の勝負哲学が要る、ということだろう。
やはり、成功者は哲学者に違いない







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2015年08月21日

【第56期王位戦第四局】羽生王位、広瀬挑戦者の胸中をさておき、王位防衛に王手

[ひと言感想]
「(羽生善治王位には)通用しない」。
こう専門誌で語った戦法を本局で採用した真意は、勿論広瀬章人挑戦者自身の胸中にしか存在しないが、渡辺明棋王と並び立つ若手最高実力者の挑戦者のこと、本局を落とせば角番直行なのを十分想定してのことだったに違いない。
実力者とは、最悪を想定し、かつ、最高のパフォーマンスを自身に課せる人のことだ。
次回第五局において、広瀬挑戦者が本領を最高に発揮するよう、そして、最高の指し回しを披露くださるよう、大いに期待したい。


★2015年8月18、19日催行
http://live.shogi.or.jp/oui/
http://kifulog.shogi.or.jp/oui/56_04/
http://live.shogi.or.jp/oui/kifu/56/oui201508180101.html
http://www.nishinippon.co.jp/nlp/shogi_oui/article/189602 (魚拓

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2015年08月20日

【BSJAPAN】「日経プラス10/戦後70年企画シリーズ遺言『時代の変化を読め』」鈴木敏文さん

【山川龍雄キャスター】
小谷さんも私も、とても興味があるのは、いくつかの鈴木さんの経営スタイル、これがどこから生まれたかっていうのは、今日是非聞きたいなっていう話をしてたんですけども[・・・](鈴木会長は)自社の店舗には定期的に行かれると思うんですけども、基本的にはそれほど現場主義ではないし、他社の店舗には殆どもうあまり見に行くことはないっていう、ずっとそのスタイルを貫いていらっしゃるじゃないですか。

【鈴木敏文セブン&アイ・ホールディングス会長】
いや、僕はね、一番現場主義だから

【山川キャスター】
それが現場主義?

【小谷真生子キャスター】
えっ?

【鈴木会長】
我々(が手がけている事業)は、(売上)対象がお客さんでしょ。
そうすると、お客さんの変化を見続けることが、一番現場なのよね。
だから、たとえば、同業他社を見たからといってね、そこと競争して、何かが少し優位に立ったって、そんな何も意味もないことよね。


【山川キャスター】
うーん。

【鈴木会長】
たとえばね、(昔)スーパー(を手がける企業)がずっと伸びてきた。
で、ダイエーさん、西友さん、まあヨーカドー、みんなそう。
だけどね、その時、お互いに同業他社をね、みんな一緒になってね、「横目で見る」んじゃなくて、「真正面から見て」、価格競争したり、店舗の拡大をしたりしてきた。
だって、今、(各社)どうなってる?

[小谷キャスター】
あー、なるほど。

【鈴木会長】
ね。
我々の現場はお客さんなんだから、お客さんを見続けることが現場なんであってね。

[小谷キャスター】
今仰ったように、それが現場主義とするならば、その原点、鈴木さんにとってそうしようと思い付かれた原点っていうのは、どんなだったんですか?

【鈴木会長】
僕はね、いつも皆さんにお話ししているのが「変化対応」でしょ。
で、世の中というものは、人間っていうのはね、常に変わる、変化する、と。
だから、「常に変化するものだ」という前提で考えれば良いと思うんですよね。
だから、たとえばね、まあこれもよく言ってることですけど、「美味しいものほど飽きる」、と。

[小谷キャスター】
えっ、そうですか?
続くんじゃないですか?

【鈴木会長】
だってね、あなたたとえばね、料理屋へ行ってね、毎日同じ美味しいものということで、料理屋から出されたらどうなの?

[小谷キャスター】
飽きますか?

【鈴木会長】
飽きますよ。
ウチ(家)でね、ご自分で作ったり、或いは、たとえばの話ですよ、たまには「時間がない」って言ってインスタントラーメン食べたりということの方が、飽きが来ないのよね。
だけど、毎日料亭へ行ってね、料亭の料理を食べててごらん。
最初は美味しいと思っても、絶対飽きるから。

【山川キャスター】
先ほどの話に戻ると、「戦争の時、教師は変わる」っていう話もありましたし、鈴木さん自身も、「段々(地元の長野の)養蚕業が縮小してくるとすれば、(自分は)また違う道を(探す必要がある)」ということを仰ったんですけど、その頃から、「人は変わる、時代は変わる、自分も変わらなきゃいけない」っていうのは、もう子どもの頃から頭の中に在ることなんですか?

【鈴木会長】
そういうことは(意識して)考えていたわけじゃないけれどもね、
「(何であれ)常に変わる」と、だから、「ちょっと先を見続けなくちゃいけない」という風に(思うようになった)。
それと、たとえば、私がね、セブン-イレブンを始めた、と。
あの時には(周囲が)もう全部反対だった。
だけど、なんで始めたかっていうと、商店街の店がおかしくなるっていうことは、それは大型店が出てくるからと言うけれどもね、大型店だっていずれはね、変わらざるを得ないだろう、と。
そうすると、その(流通業の)原点っていうのはやっぱり、小さな小売店だろう、と。
で、その小売店がダメに成るということは、当時、その(地域のお客さまの)生活にね、密着した商品をやはり提供していないからだ、と。
だから、それに合うような商品を揃えていったら良いだろう、という風に考えて(セブンイレブンを)やってきて、だから、みんながなんで反対するんだ、と(どうしても不可思議に思ってしまう訳です)。

[小谷キャスター】
(鈴木会長は)昔、統計学と心理学を徹底的に勉強された(と聞いています)。
心理学の方が主に、「変わらないといけない」っていう所に行き着くんですか?

【鈴木会長】
そう。
心理学っていうのはね、誰もやっぱりみんな心理学に対するアレは持ってられる。
要するに、世の中の変化とかね、全部心理学、心理なのよね。
先ほども話したように、たとえば「好む」とか「飽きる」とかっていうことは、これ、みんな心理なのよね。
だから商品(のあるべき価値、或いは、その開発、販売)についてだって全部、ね。

【山川キャスター】
鈴木さんが筋金入りの現場主義だったってことは、今日初めて知りました。(笑)

【鈴木会長】
だから、「現場」っていうことはね、そこへ行かなかったら分からない、ということじゃないよね
だったら、たとえば、今我々1万8千店のセブンイレブンあるじゃない。
これ、全部行くなんてこと、絶対できないじゃない。

【山川キャスター】
鈴木さんの、もしかしたらスタイルを、一番流通業で追いかけているのは、アマゾンのジェフ・ベゾス(CEO)かもしれないですね。
私、インタビューした時、おんなじこと(言ってましたもの。
「ライバルだけは絶対見ない」、と。
『ライバルを見る』ということは、二番煎じでしかない」、と。
「常に見るのは、お客さんだけだ」、と彼も言ってますよ。

【鈴木会長】
あっ、そう。
(まあそうした一連の考えは)自分でそう思うからね。
だから、別にね、競合店を、コンビニだってこれだけ沢山ね、ありますよ、同業が。
だけど、そこと(自社を)見(比べ)てね、「良い、悪い」って言ってたんじゃ、しょうがないんだよね。
今、セブン-イレブンと他の所とはね、一日の売上で、十数万の開きがあるよね。
(セブンイレブン:655千円、ローソン:533千円、ファミリーマート:508千円)
ていうことは、他見てたら下がっちゃうよね、レベルがね。
満足しちゃうもの、それで。

鈴木敏文さんのお考えは、相変わらず教示に富む。
成る程、真の「現場主義」とは、お客さまの心情態度の変化、それもできればその「兆し」に敏感、従順な思考態度を言うのだろう。
企業の戦略の立案と実行を司る(経営)幹部が製造、販売の最前線に積極的に訪れることは、あくまでその一手段、一選択肢であり、十分条件でなければ、必要条件でもないに違いない。

そもそもなぜ、製造、販売の最前線に積極的に訪れることそのものが、(経営)幹部のあるべき「現場主義」として褒め称えられるようになったのか。
あくまで個人的な見解だが、主犯は、日産のカルロス・ゴーン社長と彼を持ち上げた御用メディアだと思う。
「ゲンバが一番」と、自分の経営哲学の基盤を現場主義と標榜し、分単位の単なる物理的かつ形式的な「表敬訪問」を、あたかも幹部のあるべき現場訪問、あるべき現場主義、であるがの如く世のビジネスマンに喧伝した彼らの罪は小さくない。

しかし、こう考えてみると、改めてそもそも「現場主義」という言葉、ないし、思考態度は変だ。
というのも、現場主義が本当に先述の思考態度を意味するのであれば、(経営)幹部に限らず、あらゆるビジネスマンにとって当然の思考態度だからだ。

では、それでもなぜ、現場主義は依然褒め称えられるのか。
誤解を怖れずに言えば、日本人の多くは、それだけ現場が好きなのだろう。
もっと言えば、「商いの神様は現場にこそ宿っている」とでも、思っているのだろう。
日本人の唯一の希望は現場なのだろう。

たしかに、私は、自分自身もそうだし、また、経営コンサルタントとして経営者にも、積極的に現場を訪問することを推奨している。
が、それは現場主義の一手段、一選択肢としてではなく、基本的には、現場スタッフの業務遂行の実情と精度、そして、彼らの士気、のデータ理解不能分を肌理解せんがためだ。
現場は好きだが、結局、現場は経営の具現かつ帰趨であり、本当の商いの神様は社長室、もっと言えば、経営者の頭の中に宿っている、と思っている。

日本人の多くが現場を好み、そこに商いの神様や唯一の希望を窺うのは、それだけ経営者が信じられていないから、もっと言えば、彼らが本分の経営を殆どしておらず、結局、居ても居ないのと同じ、と見くびられているから、ではないか。
経営者足る者、表敬訪問が現場に歓待されたら、それは経営者ではなく男芸者、それも不細工で怠惰極まりないそれ、と見くびられてのことと自戒する必要がある。



★2015年8月12日放送分
http://www.bs-j.co.jp/plus10/backnumber/201508/12/



kimio_memo at 07:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0) テレビ 

2015年08月19日

【洋画】「ウォール街/Wall Street」(1987)

[ひと言感想]
「手に入れていたモノを失うことは、手に入らなかったこと以上に辛い」。
ダリアンはお金を対象に本事項を唱えましたが、勿論、本事項の対象はお金に限らず、私たちはそれを近年311で再認識しました。
幸福の最低条件は、何かを手に入れるあり難さと、諸行無常の当たり前さを絶えず忘れないことです。


ウォール街 [Blu-ray]
出演:マイケル・ダグラス、チャーリー・シーン
監督:オリバー・ストーン 
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2010-12-23


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2015年08月17日

【邦画】「日本の黒い夏 [冤enzai罪] 」(2001)

[ひと言感想]
私たち小市民はマスメディアを買いかぶり、主張を盲信する嫌いがあるが、それは過ちだ。
彼らは所詮、「利益の確保が第一」の企業であり、また、人間だ。
企業は現実問題、綺麗事だけでは飯は食えないし、「不出来で不実」な人間が構成員である以上、真理真実でないことを真理真実と誤って、或いは、確信犯的に偽って、主張しないとも限らない。
ちなみに、私が本事項に初めて気づいたのは、同じ巨人戦の記事が、自宅の読売新聞と友人宅の別の新聞とでは表現や扱い等、丸っきり別モノなのを見知った野球少年(笑)時分だ。

そして、一人間、一個人も、他者からすると「マス」ではないが「メディア」であり、彼らを社会的地位、知名度、経済力からいたずらに買いかぶり、主張を盲信することも過ちだ。
思考と判断は、他者のを盲信するものではなく、自分の頭と責任で作り上げるものだ。


日本の黒い夏 [冤enzai罪] [DVD]
出演:中井貴一、遠野なぎこ、石橋蓮司、寺尾聰
監督:熊井啓 
日活
2001-11-22


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2015年08月14日

【商品開発/経営】「コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと」川上量生さん

P215
天才とはなにか

クリエイターは過去の経験から生まれるパターンを組み合わせてコンテンツをつくっているだけ。そうすると天才クリエイターとはいったいどんな人だと考えればいいでしょうか。たくさんのパターンを知っている人、ということになるのでしょうか。

これについてぼくは、”天才”宮﨑駿を父に持つ宮崎吾朗監督のコメントが、きわめて的確に天才の定義を表していると思っています。

コクリコ坂から [Blu-ray]
監督:宮崎吾朗
ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン
2012-06-20


米国ではどのようにコンテンツをつくっているのか、吾郎監督といっしょに見学したときの話です。先に話したように、米国ではコンテンツをつくるときにはプロトタイプをいっぺん全部つくってしまうのです。つくってしまってからみんなで寄ってたかってここが悪い、ここをこうしたほうがおもしろいと話し合うのです。

お金も時間もかかるので、とても日本ではできないやり方です。

しかし、実物を見ながら議論できるので、そのほうがクオリティは上げやすいこのやり方について吾郎さんがこんなコメントをしたのです。

このやり方だと天才が要らない

実際にプロトタイプをつくってしまうことで、天才がいなくても素晴らしい作品がつくれると指摘したのです。

「逆にいうと、日本が対抗できる方法がひとつだけあって、天才がいればいい。宮﨑駿がいればいい」

そう、吾郎さんは言い切ったのですつまり、実際にできあがったものを見てああだこうだと言うのは天才でなくてもできることです。天才は実際につくらなくても脳の中でシミュレーションできるというのです。

たぶん、実際にプロトタイプをつくるのに比べて、天才が脳のなかでシミュレーションするほうが、精度は落ちるだろうけど安上がりだ。日本が対抗するにはそれしかないというのです。

「天才は安物のシミュレーターですか。ひどい表現ですね」

ぼくは思わずおかしくなったのですが、本当にそのとおりだと思ったのです。

「でも日本みたいな貧しい国は、天才を使って対応するしか戦う方法がない」

そんな会話を吾郎さんとしたのですが、これは天才とはなにかという定義になっていると思います。

天才とは自分のヴィジョンを実現してコンテンツをつくるときに、どんなものが実際にできるのかをシミュレーションする能力を持っている人である。これが吾郎さんとの会話をふまえて、ぼくが得た天才の定義です。

「天才」と「頭が良い人」は同義ではないが、前者が「成果物のひとり脳内シミュレーション」を得意にしていることと、後者が「見ている所が違う」ことは、期待成果へのアプローチが、凡人と根本的かつ習慣的に違っている、つまり、非常識である、という点で通底しており、大いに頷ける。
やはり、非常識な成果は非常識な思考習性の恵みなのだ。

もう一つ頷けたのは、アメリカの、それも多分にハリウッドのコンテンツビジネスが持続的に成功している道理だ。
なぜ彼らは成果物を作る前、高コストを惜しまず(=必要コスト&投資回収可能コストと解釈し)プロトタイプを作るのか。

主因の一つは、そうすることで、宮﨑駿さんの様な「成果物のひとり脳内シミュレーション」を得意&習慣にする天才が、子息の吾郎さんの仰るよう、必要でなくなり、成果物の品質担保とトータルコストの低減が同時達成し易くなるからだろう。
やはり、企業の存在意義の最たるは、凡人が寄ってたかって幸福に成れる、「天才不要論」の実現可能手段なのだ。

そしてもう一つは、一つ目と一見矛盾するが、そうすることで、多様な天才を集めたチーム作りが可能となり、成果物の品質向上とトータルコスト、それもとりわけ異思考コミュニケーションコスト、の抑制が同時達成し易くなるからだろう。
やはり、ビジネスの持続的な成功の要件は、一天才の属人性と一本足打法の非依存なのだ。







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2015年08月12日

【洋画】「ターミネーター3/Terminator 3: Rise of the Machines, T3」(2003)

[ひと言感想]
「自ら進んで成る」人と「否応無く就く」人。
リーダーは二種類居るのでしょう。
そして、各々に良否の別は無く、その成否は動機と片腕の強さで決まるのでしょう。
雌伏のリーダーにとって、窮地と出遭いは試練かつ好機です。


ターミネーター3 スタンダード・エディション [DVD]
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー、クリスタナ・ローケン、アール・ボーエン、ニック・スタール、クレア・デインズ
監督:ジョナサン・モストウ 
ジェネオン エンタテインメント
2006-03-24




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2015年08月11日

【経営】「HARD THINGS 答えがない難問と困難にきみはどう立ち向かうか」ベン・ホロウィッツさん

P307
戦時のCEOだったジョブズとグローブ

ビジネスにおける「平時」とは、会社がコア事業でライバルに対して十分な優位性を確保しており、かつその市場が拡大しているような状況を指す。平時の企業は市場のサイズと自社の優位性の拡大にもっぱら注力していればよい。これに対して「戦時」は、会社の存亡に関わる危機が差し迫っている状態だ。そうした脅威にはライバルの出現、マクロの経済環境の激変、市場の変質、サプライチェーンの変化などさまざまな原因が考えられる。

(中略)

平時と戦時とでは、根本的に異なる経営スタイルを必要とすることを私は経験から学んだ。多くの経営書は平時のCEOの経営技術にほとんどのページを割いており、戦時についてはほとんど言及されない。たとえばたいていの経営書で「決して部下を公の場で叱責してはならない」と絶対の原理であるかのように説かれている。ところがアンディ・グローブは、大勢の出席者がすでに着席している会議に遅れて入ってきた社員を「この世の中で私が持っているのは時間だけだ。その時間をきみは無駄にさせている」と叱った。どうしてこれほど異なった経営スタイルが必要になるのだろうか?

インテル戦略転換
アンドリュー・S. グローブ
七賢出版
1997-11


平時のCEOは会社が現在持っている優位性をもっとも効果的に利用し、それをさらに拡大することが任務だ。そのため、平時のリーダーは部下からできる限り幅広く創造性を引き出し、多様な可能性を探ることが必要となる。しかし戦時のCEOの任務はこれと逆だ。会社にすでに弾丸が一発しか残っていない状況では、その一発に必中を期するしかない。戦時には社員が任務を死守し、厳格に遂行できるかどうかに会社の生き残りがかかることになる。

スティーブ・ジョブズがアップルに復帰したとき、会社は倒産まで数週間という厳しい状態にあった。典型的な戦時のシナリオだ。社員全員がジョブズの再生プランを厳密な正確さで実行しなければならなかった。こうした場合には個々人の創造性が発揮される余地はほとんどない

逆に検索市場で覇権を確立したあとのグーグルは、幅広いイノベーションを目指すという平時の例の典型だ。グーグルの経営陣は社員が創造性を発揮することを許したけでなく、すべての社員に就業時間の20パーセントを自分の好むプロジェクトに割くよう命じた平時の経営テクニックと戦時の経営テクニックは、それにふさわしい状況で適応されればそれぞれ大きな効果を発揮する。だがこの両者はまったく異なった経営スタイルだということに注意しなければならない。平時のCEOと戦時のCEOは別人格だ

なぜ、日本の大企業のリストラ(事業再構築)は概してうまく行かないのか。
これまで私はその原因の多くを、日本の文化(日本人の思考習性)と労働環境の悪い意味での非柔軟さ、及び、経営者の実力と胆力の稀薄さに見てきたが、ベン・ホロウィッツさんのお考えによれば、成る程、後者は、専ら「坂の上の雲」を見て膨れ上がった大組織の、「平時のCEO」ばかり再生産してきた、内部昇格を是とする経営人事のシステム、並びに、慣行が元凶なのだろう。

坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋
1999-01-10


そして、「婿養子制度の臨機応変活用が、同族企業の『企業生存力』の高さの源泉」との、京都産業大学沈政郁准教授の考察は示唆に富むが、同族企業の長寿の秘訣は、「平時のCEO」と「戦時のCEO」の使い分けの妙なのだろう。


そもそも企業組織は、個人の強みと弱み(限界)を集団の多様性で相乗活用、ないし、リスクヘッジできるのが最大の特長だ。
企業組織の最たるである大企業が「平時のCEO」ばかり再生産するのは、最大の機会損失に加え、最大の自殺行為に違いない。



HARD THINGS
ベン・ホロウィッツ
日経BP社
2015-04-17




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2015年08月10日

【第56期王位戦第三局】広瀬挑戦者、羽生王位の土壇場のミスを逃さず、一勝目をあげる

[ひと言感想]
「勝負を決めるのは凡そ『ミス』であり、程度の軽重もさることながら、そのタイミングの遅早(おそはや)が肝腎。同じミスでもタイミングが遅いと、取り返しがつかない」。
不肖かつ下手の横好きの私、本逆転劇から本事項を改めて思い知りました。
ミスは人間につきものですが、勝負においては、「させる」なら遅く、「する」なら早く、です。


★2015年8月5、6日催行
http://live.shogi.or.jp/oui/
http://kifulog.shogi.or.jp/oui/56_03/
http://live.shogi.or.jp/oui/kifu/56/oui201508050101.html
http://dd.hokkaido-np.co.jp/entertainment/igo-shogi/igo-shogi/1-0165565.html (魚拓

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kimio_memo at 07:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 将棋タイトル戦 | -王位戦

2015年08月06日

【司法】「それでもボクは会議で闘う ドキュメント刑事司法改革」周防正行さん

P221
おわりに

(前略)

それにしても、会議に出席していた方たちと自分の考え方の違いに驚くことが多かった。

たとえば「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」という法格言がある。

これについて、「当然そうだ」という人は多く、真っ向から否定する人はあまりいない。それでも、こう言葉を継ぐ人たちがいる。

「でも、十人の真犯人を逃すわけにもいかないのです」

そういった瞬間に、この法格言の本質的な意味を否定することになると、彼らは思っていないのだろうか。


当然、真犯人を明らかにして、その罪を償わせることは多くの人の願いだ。ただし、その思いだけが先行すると、特に無実の人を罰してしまうことがある。だからこそ、この格言に意味があるのだ。人は間違いを犯す。同じ間違いであるなら、無実の人を罰するより、真犯人を逃すほうがいいではないか。人が人を裁くことに対して、畏れを持たずにいられることが信じられない。

この法格言の理解の違いが会議でのかみ合わない議論につながっていたような気がする。

わかりやすく言えば、絶対に真犯人を逃してはいけない、という思いの強い人は、知らぬ間に被疑者を巧妙に嘘をついて罪を逃れようとする「真犯人」だと推定して発言していたのではなかろうか。そういう人たちにとって、最も重要なのは、罪を逃れようとする「真犯人」を逃さないための司法制度だ。そして一方、えん罪を恐れる人は、被疑者が「無実の人」であったらと思い、たとえ無実の人が逮捕されても、その人の身の潔白が明らかになるような司法制度にしなければならないと考え、意見を述べていたのだ。いわば有罪推定と無罪推定の争い。

これでは、議論がかみ合うはずもない。

(以下省略)

「そもそも人が人を裁くのは、法の下とはいえ最も畏れ多いことであり、無辜を罰すること、並びに、その可能性を維持、助長する仕組みを放置する(改修しない)こと、は、決してあってはならない」。
周防正行さんの思いは、こういうことだろう。
私は、周防さんのこの思いも、また、根本思想である「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」との法格言も、強く同意する。
が、この法格言の理解の違いが、本部会(「新時代の刑事司法制度特別部会」)のかみ合わない議論の元凶である、との周防さんの見立ては、同意できない。
周防さんや村木厚子さんら有識者委員と反目した専門家委員は、この法格言の意味も意義も理解しつつも、「でも、十人の真犯人を逃すわけにもいかない」とポジショントークせざるを得ないのであり、これをして「この法格言を本質的に理解していない」と断じるのは、酷かつ言い過ぎだろう。

なぜ、彼らはその旨ポジショントークせざるを得ないのか。
彼らの「ポジション」とは、いかなるポジションか。
法の「番人」であり、「管理者」とも言えよう。
また、今風に言えば、法の「中の人」とか「あちら側」であり、対する周防さんら有識者委員は、法の「利用者(ユーザー)」や「こちら側」だろう。
企業の社長、経営者をイメージすると分かり易いが、法律に限らず、管理者の最大関心事は[担当集団の全体最適]であり、ユーザーの最大関心事である[自身(個人)の幸福]、即ち、[局所最適]、は二の次だ。
というか、ポジション上、役割上、そうせざるを得ないのだ。
「管理者足る者、何百人、何千人、何万人の内の一人をも不幸にしてはならない(→事実上、担当集団の全体利益より個別利益を優先する)」とすると、管理者は務まらないのだ。

不勉強なことに、私は「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」の格言の本当の由来を知らない。
が、誤解と非難を覚悟して言えば、この格言は、結局、法の核でも本質でもなければ、「ヒロシマ/フクシマを忘れてはいけない」と同様、「理想(あるべき心情態度)」や「努力目標」、或いは、言い方は悪いかもしれないが「建前」、ないし、ユーザーである市民への「救い」や「気休め」だろう。
というか、そこまで法に求めるのは求め過ぎで、法には酷だろう。
「システム」の100%の稼働、効果(受益)が現実的に無理、もしくは、費用対効果的に見合わないものである以上、それが法という社会システムの限界だろう。
そして、冤罪発生の極小化、並びに、その推進手段としての「取調べの可視化」、「証拠の事前全面一括開示」、「人質司法的勾留の廃止」の早期実現は、この法格言の理解ウンヌンと切り離して合理的に論じるべきだろう。

「社会は不公平だ。絶対公平にはならない。大事なのは、そんな社会で自分はどう生きるか考え、行動することだ」。
これは矢野顕子さんの名言だが、思い出す度、つくづく得心する。
私たち日本人はとりわけ「建前」、「救い」、「気休め」の類が好物だが、好きが講じ過ぎて現実と入れ替えてはいけない。







kimio_memo at 07:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 書籍 

2015年08月04日

【邦画】「太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男」(2011)

[ひと言感想]
なぜ、大場大尉、否、敗走集団長は、米軍から「フォックス」と称賛されるほど、窮余の最善策を着想、敢行し尽くせたのか。
一番の理由は、一度命拾いしたからではないでしょうか。
そして、初めて心底、今生きていられることをあり難く感じ、今果たすべきコト、守るべきモノを得心したからではないでしょうか。
奇跡を為すには、先ず自分が今生きている奇跡を思い知る必要があるに違いありません。


太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男- スタンダードエディション [DVD]
出演:竹野内豊、ショーン・マクゴーウァン
監督:平山秀幸 
バップ
2011-08-17


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kimio_memo at 07:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 映画