2013年10月

2013年10月31日

【講演】「Marketing and Innovation: The Winning Combination」フィリップ・コトラーさん(ノースウェスタン大学ケロッグ・スクール・オブ・マネジメント教授)

ビジネスとは、プロダクトではなく、プラットフォームを作ることだ。

フィリップ・コトラー教授はアップルを引き合いにしてこう仰ったが、正に御意だ。
そうなのだ。
ビジネスとは、自社のモノやサービスが無ければ、利害関係者のビジネスや生活が立ち行かなくなる状態を創造、維持する営みなのだ。
独自のモノやサービスを作りさえすれば良かったのは、それらが稀少だった時代のビジネスであり、とうの昔に終わっているのだ。


★2013年10月30日「日立イノベーションフォーラム2013」で催行
https://hjid.ext.hitachi.co.jp/public/session/view/47
※上記内容は意訳
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kimio_memo at 06:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 講演/セミナー 

2013年10月28日

【映画】「若松孝二・俺は手を汚す」若松孝二さん

P192
まァ他の監督ってのは、おおかたまともに学校続けてさ、大学に入っても映画ばっかり好きで見てて、そうやって映画の世界に入って来るわけでしょ。だからみんな他の仕事は一切できないわけだよね。つまり映画以外では役に立たないんだよね。俺は映画でなくても食っていけるってとこある。何かやってても映画にまた帰って来るってわけだ。

昔は、いくらか映画で何かできるんじゃないかという感じがあったけど、(19)68年から70年にかけて、もう映画じゃなにも起こらないんだということがわかった。実際何も起こらなかったしね。俺の映画を見て、意識の上で何かを生み出したってことはあるかもしれないけどね。映画の中でそういう人を描きたいっていうことだよ。そういう人たちは立派なんですよってことを、さらっと言いたいわけだ。俺、人間が好きなんだ。

人間を描くことができないやつが、なんで映画を撮れるかと思うね。”人”に興味を持ったほうがいいって気がする。映画ってのは人が出るわけだから、人に興味がないやつが映画撮ったって、面白いものなんか撮れないんじゃないか。そういう意味で、俺は”人”の起こした事件物にフトのるってことになったりするんじゃないかな。

私たちが働く理由の最たるは「食う為」だが、「他者に影響を与える為」とか「他者の人生に足跡を残す為」というのも相当に大きいと思う。
なぜなら、私たち人間は社会的な生き物だからだ。
私たちが少なからず出世欲や権力欲を持っているのも、本意は「他者を睥睨する為」とか「他者を意のままに操る為」というより、結果として「自分の社会における実力と存在意義を確認する為」だと思う。

だから、私は、若松孝ニ監督のこのお話に感心してしまった。
若松監督が後年、敢えて映画監督として働いたのは、「食う為」でなければ、「他者に影響を与える為」でも、「他者の人生に足跡を残す為」でもなく、ただ純粋に、「自分が立派だと思い、興味を惹かれた人とその人生を世に知らしめる為」であった。
かつて「他者を変える為」どころか「社会を変える為」に映画を撮るも絶望し、けれども、達観の上、かくも映画監督として働く理由を改めて見出すとは、しかもそれを利他に見出すとは、感心する他ない。

なぜ、若松監督は、一旦絶望するも、また、他にも「食う為」の術が無い訳ではないものの、心機一転、映画監督を職業として選び続けたのか。
私は、主因として以下の三つを妄想した。

一つ目は、若松監督本人も仰っている様に、「算盤や理屈を超えて、人が好きだから」だ。
若松監督からすると、関係者や自分の財布が破綻しない範囲で、心底惹かれた立派な人とその人生を、自分の得意メディアである映画で世に知らしめることができたら、それだけで本望だったのではないか。

二つ目は、「一旦、完全に絶望したから」だ。
若松監督からすると、かつて映画で社会を変えることの可能性を究極追求し、そして、完全に絶望したからこそ達観でき、かつ、「好きで、立派だと思える人とその人生を映画で世に知らしめられたら、それだけで本望」と、ただ純粋に、また、つゆも未練無く感じられたのではないか。

三つ目は、「『食う為』の術が他にも有ったから」だ。
若松監督からすると、「食う為」に映画を撮らないことが、惹かれた立派な人と世の中に対する礼儀であり、かつ、独立系映画監督としての矜持だったのではないか。

ともあれ、故若松監督に改めて合掌したい。



若松孝二・俺は手を汚す
若松 孝二
河出書房新社
2012-12-22


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2013年10月25日

【野球】「コーチング―言葉と信念の魔術」落合博満さん

P148
周囲に目標を公言せよ。
おのずと、やるべきことが見えてくる。

現役時代の私は、シーズン前に抱負を聞かれると、必ず、「三冠王を獲る。そしてチームを優勝させる」と言い続けた。実際、三冠王を手にできたのは86年が最後だし、タイトル自体も91年の本塁打王が最後になった。しかし、その後も、「三冠王を獲る」とは言ってきた。

これは自分自身を精神的に追い込んだわけではないし、虚勢を張ったわけでもない「タイトルというものは、必ずその年に誰かが獲るものだ。それなら、なぜ自分が獲ったらいけないのか」と考えた。ただそれだけのことだ。

82年に初めて三冠王を手にした時は、「また三つ獲ってやろう」などという意気込みは持っていなかった。だから、翌83年が首位打者のみに終わっても、「本塁打王と打点王を他の選手に獲られてしまった」という悔しさもなかった。ただ、またその翌年、84年にブーマー・ウェルズが三冠王を獲った時は、正直言って気分が悪かったそれと同時に「打撃タイトルを一人で三つも獲ってしまうことは、これほど他の選手にもダメージを与えるのか」ということを実感した。だから、次の年からは、再び自分がやってやろうと思ったのだ。

ファンやメディアからは「俺流の有言実行」とか「究極のポジティブ・シンキング」と言われていたが、過去にタイトルを何度も獲ってきた人は、みんな同じような発想だったと思っている。王貞治さんは13年連続を含めて15回も本塁打王を手にしたが、そうなると本塁打王は王さんの代名詞のようになってしまうから、ある種の義務感が生まれてくることもあるだろう。

つまり何度もタイトルを獲る人は、「獲らなければならない」と考えているのではなく、「自分が獲るものだ」と当然のごとく考えているのだ。メディアに対しては奥ゆかしく謙虚に、「結果がそうなった」と言ったかもしれないが、実際は、最初から自分が獲るものだと思ってやっているはずだ。

一般社会でも同じことが言える。最初に目標を掲げなかったら、良い仕事はできない。最初から「この仕事は、うちの会社が取ってくる」と言って初めてそうなるのであって、「この仕事が取れればいいな」くらいの気持ちで交渉に行ったのでは、実際に取れるはずがない。

よしんば、「取れればいいな」で仕事を取れたにしても、その後が大変だと思う。仕事を取ってきたのはいいが、どうやってその仕事に取り組み、成功させればいいのか、とても不安になるだろう。だから、仕事に取り組む場合は、どんな時でも”成功への青写真”を先に描く。「仕事ができる」と言われる人はみんなそうだ。見切り発車は絶対にしない。そして、自分の目標をどうしても達成したいと思えば、当然、準備期間も長くなる。遊んでいる暇などない。

目標に向けたプロセスでは、自分と闘い、相手と戦い、数字と闘う。その中で、公言したための自分との戦いなど誰にでもできる。だから、思い切って「自分が取る」と言ってしまえばいい。公言しないで取りに行く人に限って、実際に取れてから「自分には、この仕事を取れる自信があった」などと言いだす。

公言してしまうと、自分が笑われるのが嫌だから一生懸命になる。誰でも「あいつは大ボラ吹きだ」と言われたくない。加えて、目標を達成するためにやるべきことが見えてくる。

非常に考えさせられる内容だが、とりわけ以下の箇所に考えさせられた。

【1】「タイトルというものは、必ずその年に誰かが獲るものだ。それなら、なぜ自分が獲ったらいけないのか」と考えた」。
【2】「『打撃タイトルを一人で三つも獲ってしまうことは、これほど他の選手にもダメージを与えるのか』ということを実感した。だから、次の年からは、再び自分がやってやろうと思ったのだ」。
【3】「何度もタイトルを獲る人は、『獲らなければならない』と考えているのではなく、『自分が獲るものだ』と当然のごとく考えているのだ」。

やはり「立場が人を作る」のと同様、「実績が実績を作る」のだ。
「実力が実績を作る」のではないのだ。
実績という成功体験と既成事実が、成功への敷居を下げ、当事者の既成の思考&行動習性を発展的かつ高次に破壊、更新するのだ。
将棋の羽生善治さんが、41才にして史上最多タイトル獲得数(81期)を達成なさったのは、「実績が実績を作った」てん末に違いない。


P161
経験に裏づけされた「感性」を研ぎ澄まし、自分自身を洗脳せよ。

横浜キャンプで私が指導した若い選手が、何かをつかんでくれたことは先述した。多村たちにしてみれば、選手としての実績がある臨時コーチに指導を受けたことで「あの人に教わったのだから、自分は良くなるはずだ」という思いがあるだろう。これは、私という存在に洗脳されたと言ってもいい。だが、3日で私が帰ってしまった後、オープン戦を経てペナントレースに臨む際に、取り組まなければいけないことは何か。

それは、私から受けた指導を自分の中に取り込み、そこから創意工夫して自分のものにすることであるそのために大切なのが感性だ。そして、この感性を磨くことが一流への道を開いてくれる。

一軍に昇格してからの私には、天敵と言える投手がいた。阪急(現・オリックス)のエースだった山田久志さん(前・中日監督)である。山田さんは私と同じ秋田の出身で、グラウンドの外ではずいぶん可愛がってもらったのだが、こと勝負になると一方的に押し込まれていた。

山田さんは、アンダースローから繰り出すシンカーを武器にしていた。強打者との対戦では、必ずと言っていいほど、この沈むボールで勝負を挑んできた。だが、私はこのシンカーがまったく打てなかったのである。

もちろん、阪急と対戦する時の打撃練習では、山田さんのシンカーをイメージしながら攻略法を研究した。それでも結果は出ないのだ。そこで私は、考え方を180度変えてみることにした。

シンカーなど、沈むボールを打ち返すためには、下からバットを出してすくい上げるように打つというのが常識的な考え方だ。しかし、私は「沈むボールを上から叩いたらどうなるか」と考えてみた。詳しい技術的なことは省略させてもらうが、これを打撃練習で実践してみると、きれいに打ち返すことができたのである。

私の感性から捻り出した攻略法で山田さんとの対戦に臨むと、結果は顕著な形で表われた。私のバットは山田さんのシンカーを見事にとらえ、あっという間に山田さんと私の立場は逆転したのである。良い結果が出れば、自信も生まれる。山田さんのシンカーを打ち返してからの私は、顔を見るのも嫌だった山田さんとの対戦が楽しみにさえなってきた。

ここで最も大切なのは、自分の感性を働かせて目標(この場合は、山田さんを打つということ)に取り組み、ある程度の成果を挙げたことで、「自分にはできる」という気持ちが生まれたことつまり、自分で自分を洗脳した状態になっているのだ。横浜キャンプでの多村は、私に洗脳された状態であると書いた。だが、このままでは、良い結果が出なくなった時に、洗脳による自信は解けてしまう。なぜなら、洗脳してくれた私という存在が近くにいないからだ。

指導者から洗脳された状態のままでは、次の壁を越えることはできない。その自信をもとにして、自分で自分を洗脳する状態にまで持っていかなければならない。ここまでくれば、何か壁にぶつかっても問題ない。洗脳している人(自分)が近くにいて、次の突破口も見つけてくれるからだ。

85、86年と2年連続三冠王を手にした時も、感性が大切な役割を果たした。実は、この時までの私は、シーズンで40本以上の本塁打をマークしたことがなかった。82年に初めての三冠王を獲得した時も、本塁打数は32。それで、「あんな数字の三冠王には価値がない」などと言われたりもした。

85年の春季キャンプに臨む私は、どうすれば本塁打を量産できるかを考えた。そこで誰でも思いつくことは「飛距離を伸ばすにはどうするか」ということではないか。そして打ち方を変えたり、ウェイト・トレーニングに精を出したりする。しかし、私はこう考えた。「ファウルになる打球をスタンドに入れられないか」

これが、私の感性から捻り出された目標である。
外野のボールをかすめてファウルになる打球を、スタンドに運ぶ方法を模索したのだ。まずイメージしたのは、私は右打者だから、レフトにはスライスボールを、反対にライトにはフックボールを打てればいいということ。そして、そういう打球を弾き出すためにバットの出す角度をあれこれ試していたら、実際にできるようになった。

その結果、この年の私は40本どころか、一気に52本塁打を放ち、3割6分7厘の打率と146の打点とともに、文句なしの三冠王を手にすることができた。しかし、この話にはオチがつく。もう少しお付きあいいただきたい。

今だから言えるが、ファウルボールをホームランにする打ち方を身につけたものの、そんな打球が実際に打てたのは1本か2本だったと思う。では、本塁打を量産した本当の理由は何か。それは、妻の突拍子もないひと言だった。前年のシーズン・オフに突然、妻は私にこう言った。

「あなたがホームランを打てないのは、体が細いからじゃないの?だって、門田(博光)さんとか外国人選手とか、ホームランをたくさん打つ人は、みんなポッチャリした体型よ」

翌日から、我が家の食卓には、関取がいるのかというほどの量の食事が並んだ。そして、それを食べ続けた私は、現在のようなアンコ型の体型になっていったのである。結果的には、これが私の打球の飛距離を飛躍的に伸ばした。私の打撃フォームが、体重を十分に乗せて打つものだったということも関係しているだろう。

ファウルがホームランにならないか、ということまでは、私の感性から出てきた。だが、太れば打球が飛ぶという発想は、私の感性からは生まれなかった。この時の私は、野球の素人の感性もバカにはできないと痛感した。

さて、本塁打を量産することに関しては、私の感性は結果に結びつかなかった。だが、大切なのは、私の中では「ファウルをホームランにする打ち方でいける」という手応えがあり、結果が出ていることで自分を洗脳している状態を保てたことだ。だから、ライバルの打者が迫ってきても、何試合か本塁打が出なくても、「絶対に大丈夫。最終的にタイトルを獲るのは自分だから」と思えた。

自分に自信を持つというのは、どんなことに取り組む場合にも必要だ。だが、その自信が裏づけのないものだと、壁にぶつかった時には消えてしまう。本当の自信とは、感性を研ぎ澄まし、自分で自分を洗脳することから生まれるーー現役を終えた今でも、私はそう考えている。

先に、「実績が実績を作る。実力が実績を作るのではない」と記したが、これは「実力は不要」ということではない。
「実力は実績の必要条件に違いないが、実績には及ばない(=必要条件としての序列は実績の方が遥かに上である)」ということだ。

では、実力の必要条件は何か。
落合さんの考えにならえば、感性だ。
「これならイケル!」と自分で自分を洗脳し、揺るがぬ自信を与える根拠の源としての感性は、かつて無い実績をもたらすことに加え、不意の問題や好機への適切な対応を可能とし、結果、実力を確実かつ持続的に引き上げるのだ。
過日王座位を防衛し、タイトル通算獲得数を完全前人未到の86期に伸ばした羽生善治さんは、間違いなく史上最強棋士であり、また、本当に頭が良いが、その所以である所の「見ている所の違い」の源は、詰まる所この感性かもしれない。
一見無関係、無意味な自他の関係性、意味合いを読み解き、それを自分事(⇔他人事)として積極的に受容する感性こそ、独自の創意工夫とソリューションを生み、更なる実績と実力を作る、揺るがぬ自信の正体かもしれない。

では、感性はいかにして磨くか。
落合さんは本件には不問だが(笑)私は基本的には目標達成に対する執念の持続と試行錯誤だと考える。
落合さんはホームランが量産できた近因を奥さま発案の「食事量の増加による体重&パワーアップ」と認めつつ、自身発案の「ファウルをホームランにするバッティングフォームの会得」が予め揺るがぬ自信を与えていたことを真因とお考えだが、両案はそもそも、落合さんが「ホームランを量産して、誰からも文句の出ないホームラン王に(→ひいては三冠王に)成る」という目標に対して非常識な執念を持続させ、非常識な試行錯誤を繰り返していたからこそ日の目を見た訳であって、さもなくば、出会い頭スルーされていたに違いない。


P166
直属の上司だけが指導者ではない。
自分の指導者はもっと増やせる


そう、ライバル・チームのコーチも、自分の仕事にとって参考になるヒントを与えてくれる可能性がある。営業先や取引相手の会社にも、そんな上司は一人や二人いるはずだ。その人は、単なる他の会社の指導者ではない。自分自身の”指導者”なのである。

そして、こうした感覚を持てば、自分の指導者はもっと増やすことができる。例えば、自分のバッティングの状態をより的確に把握するためには、誰にアドバイスを求めればいいか。打撃コーチ、チームメイト・・・これはまだ常識の範囲内だ。私が頼りにしていたのは打撃練習のバッティング・キャッチャーである。

失礼な書き方になるが、バッティング・キャッチャーをやっている人は、ほとんどが元プロ野球選手で、それも一流まで上り詰めた人はいない。志半ばでクビを言い渡されたものの、野球が好きで、裏方としてこの世界でやっていきたいと考えた人間である。

そんな裏方のスタッフに対して、日頃の労に報いるために食事会を開く選手は多いが、その人をアドバイザーにしようと考える選手は少ない。だが、考えてみてほしい、バッティング・キャッチャーは、毎日打撃ゲージの同じ場所に座って、ひたすら打撃投手のボールを受けているのだ。こんな経験を重ねているうちに、自分の目の前で打っている選手については、様々なことがわかるようになっている。

打撃練習を終えた私は、ゲージを出る前に決まってバッティング・キャッチャーにこう話しかけた。

「俺にいつもと変わったところはなかった?遠慮しないで言ってくれ」

すると、時には「いや、いつもより迫力がないというか・・・」とか「バッティングのグリップがほんの少しですが下がっているようです」などと、雰囲気から技術的なことに至るまで、実に的確に、かつ明快に教えてくれるのだ。彼らが教えてくれることは、自分でも気づかないでいるポイントであることが多い

一流の選手が裏方のスタッフから学ぶーー常識外れかもしれないが、自分にとって活用できることならば、常識より実を取りたい。こうした感覚を持つことは、次第に仕事における視点の置き方にも独自性をもたらしてくれるはずだから。

私は、最近いよいよ時間に追われており(苦笑)、セミナーや講演の類に以前ほど参加できないが、それでも演目に関する問題意識が明確かつ強い場合は、できる限り参加するようにしている。
そして、会の進行や演者の事情の妨げにならないと思しき場合は、演者に直接質問するようにしている。
だから、例えば、先週の土曜、私は、日本医師会主催の大腸がんのシンポジウムに参加したが、それは、今夏大腸内視鏡検査でポリープを摘出し、大腸がんの罹患にセンシティブだからであり、然るに、終了後、登壇医師のお一人で、大腸がんと内視鏡検査のエキスパートと思しき田中信治教授に、ポリープ摘出後の大腸がんの罹患を防ぐ有効な生活習慣を個別質問した

逆に言えば、演者に直接質問することがなければ、今私は、セミナーや講演の類に参加しない。
なぜなら、「演者に直接質問することがない」というのは、演目に関する問題意識が低いか、そもそも不明確、ということだからだ。
また、「セミナーや講演の類に参加する」というのは、他者に教えを請う、ということだからだ。
「問題意識」は「目的意識」に換言可能だ。
目的意識が低い、もしくは、不明確なまま他者から教えを請うのは、時間と体力の無駄であるのは勿論、そもそも他者に失礼だ。

つまり、問題意識、目的意識が明確かつ強靭であれば、落合さんが仰る通り、「指導者は広く遍く求めるべし」であり、また、それがライバルとの競合優位に十分成り得る。
たしかに、プロ中のプロのバッターである落合さんが、プロ崩れのバッティング・キャッチャーにバッティングフォームのチェックを請うのは、非常識かつ一見ナンセンスだ。
しかし、プロのバッターとして最高勲章の三冠王を常に目標に掲げ、そのための執念、試行錯誤、検証を絶やさない落合さんは、自分のバッティングフォームの無意識的な変化に対する問題意識が相当高く、その教えを日々間近でつぶさに確認しているバッティング・キャッチャーに請うたのは、非常識ではあるが極めて合理的だったと同時に、ライバルが凡そしていないことをしていた意味で、極めて戦略的だったに違いない。
他者に教えを請うには、相応の自己準備が必要だ。


P196
「時間がない」は単なる言い訳。
時間の使い方が下手なだけだ。


私は何か困難な問題にぶつかった時、自分の置かれた状況を正面からだけではなく、横から斜め、上から下と、様々な角度から見つめるようにしてきた。そうすれば、どこかに打開策はある。だからといって、こうしたやり方をほかの人に勧めることはしなかった。自分が直面した問題を乗り切る時は、その人独自の方法が一番良いからだ。自分の方向性、やり方などに独自のものを見つけさえすれば、道は何とか開いていく。

落合さんが自分の思考や言動を「オレ流」と言って憚らないのは、「淘汰を旨とする『契約社会』に生きる人間足るもの、各自『オレ流』を持って然るべし」との理念と、絶えず更なる「オレ流」を模索している自分への過干渉予防に基づいているのではないか。
落合さんの本音は、「干渉するならカネをくれ」と言ったところではないか。(笑)


P200
自分で作ったマニュアルを使えるのは自分だけ

私が85年に、本気で三冠王を獲りにいったことは先述した。そして、幸い目標通りに三冠王を獲ることができたので、私の中にはわずか1年で”三冠王獲得マニュアル”ができた。だから、次の年からはこのマニュアルに基いてシーズンを戦い、結局は引退までやり方を変えることがなかった。変える必要もないと考えたからだ。そうした経験から、自分で作ったマニュアルの使い方を書いてみたい。

自分で作ったマニュアルというものは、何かのきっかけで変えなければならないとか、マニュアル自体が通用しなくなる前に手を打ちたいということが、どこかで出てくる場合はあるだろう。だが、自分の仕事がまだ発展途上の段階にあったり、目標を達成するプロセスにいる時は、マニュアルの中身には手をつけないほうがいい。そのまま流れに任せていたほうが結果的にはいいし、余分なことをしないで済む。

「このマニュアルでやっていくのは、そろそろ限界かな」と感じた時に初めて変えても、まだ間に合う。ただ、完璧に使えなくなってから変えたのでは遅い。その微妙な差を自分自身で見極めることが大切だ。

私の場合は、86年にも続けて三冠王を獲得し、自分のマニュアルにさらなる裏づけができた。ところが、翌年以降は再び三冠王を獲ることはできなかった、つまり目標を達成していないから、マニュアルを変えずに使い続けたわけである。また、理由はもうひとつある。他の選手が私以上のマニュアルを作って三冠王を獲らなかったことだ。これは、その時点のプロ野球において、私のマニュアルが最も優れている、あるいは効果があるということを示している。そして同時に、私以上に野球を勉強している選手がいないということにもなる

そうやってマニュアルを作って仕事に取り組むことは、何も特別な能力を必要とするものではない。私だからできたのではなく、誰にでもできることだ。ただ、マニュアルの作り方がわからないだけだろう。

では、最初は誰かのマニュアルを真似てやってみて、それから自分のマニュアルを作り上げることは可能か。いや、これも難しいだろう。自分のマニュアルを使えるのは自分だけであって、ほかの人に「使え」と言っても、またほかの人が真似しようとしても、うまくはいかない。だから、一人ひとりの人間が、それぞれ自分のためのマニュアルを作っていかなければいけないのだ。私のマニュアルを同じように使って成功できるのは、私のクローン人間だけだろう。

さて、自分のマニュアルを作り出すことは、それほど難しい作業ではない。自分のことは自分が一番よく知っているわけだから、性格、考え方、仕事の進め方などを考慮しながら練っていけばいい。どんな仕事でも、自分が積み重ねてきた経験の中で、「こうすればうまくいく」、あるいは「こうしたら失敗する」というものがあるはずだ。それをしっかりまとめておいて、最終的に自分の仕事のコツにする。経験を積めば積むほどコツは増えていくーーつまり、マニュアルも確かなものになっていくはずだ。反対に、「ほかの人のマニュアルを作れ」と言われるほうが余程困難だろう。ここがコーチングの難しさとも言える。

「営業マニュアル」等、過去マニュアルを多々作ってきた者として、多々考えさせられ、多々気づかされた。

落合さんが「三冠王獲得マニュアル」まで作られていたのには驚いたが、シーズン単位での非常識な実績を契約するプロ中のプロのバッターとして当然と言えば当然だ。
一個人が長期間かつトータルで非常識な実績を出すには、精緻かつ深層に体系立てられた独自の合理とマイルストーンが必要であり、それが落合さんの言うマニュアルに違いない。
だから、落合さんは、自分が非常識な実績の極みである三冠王を86年以降取り損なうも、他に誰も三冠王を獲得できていないことから、自分以外のバッターが自分より優れた「三冠王獲得マニュアル」を持ち得ていないと判断し、引退までそれに忠実であり続けたに違いない。

きっとイチローも、「200本安打達成マニュアル」を作っているに違いない。
イチローがシーズン中毎日、カレーを食べること、球場に一番乗りして十二分にストレッチをすること、バッターボックスに入ってからユニフォームの袖を捲し上げること、ロッカールームでグラブを入念に磨きながら試合を総括することも、「200本安打達成マニュアル」の一端に違いない。

ただ、話は脱線するが、彼らの様な偉人と私たちの様な凡人を分かつのは、直接的には、こうしたマニュアルを作っているか否かということに起因するのだろうが、そもそもは、「三冠王を獲得する」とか「200本ヒットを打つ」といった高邁な目標を自らに本気で課すか否かということに起因するのではないか。
過日、吉田拓郎さんと小田和正さんの対談番組で、吉田さんが「なぜ、日本のここ10年、20年の若いミュージシャンは、ビルボードではなく、オリコンで一位を取ることにしか情熱を燃やさないのか?」との問いに、小田さんが「そこ(=ビルボード)はそもそも見てない」と答えたのを偶然見て、そう直感した。

話を元に戻して、落合さんのこのお話でとりわけ気づかされたのは、以下の二つだ。

一つは、マニュアルは、方法論や手順(プロセス)が体系的に記されているだけでなく、理念と理想も体系的に記されていなければいけない、ということだ。
世のマニュアル大半が、時間が経過するや否や、はたまた、パフォーマンスが期待値を下回るや否や、忽ち使えなくなるのは、方法論や手順が理念や理想と合理的かつ確固として紐付けられていないからだ。
理念や理想といった本質、根本は、一時の結果やTPOを筆頭とする外部要因に影響されない。
そして、方法論や手順の最適化を適宜促し、陳腐化を防ぐ。
イチローがメジャーで基本13年連続スタメン出場しているのは、「200本安打達成マニュアル」を作り、生活習慣とバッティングフォームを適宜更新しているからに違いない。

もう一つは、マニュアルの作り方は、元々は誰にも分からず、自分で編み出し、会得するものであり、かつ、やれば必ず会得できるものである、ということだ。
これは、ビジネスで例えると、経営者や幹部社員が、「ウチは、これまで営業マニュアルを作ったことがなく、誰も作り方がわからないので、コンサルタントにでも作らせよう」と考えたら、その時点でその会社の未来は終わる、ということだ。
自分を徹底的に俯瞰することと、自分の今のパフォーマンスを因果的に抽象化することの技術的かつ精神的苦痛から逃げ、自分のマニュアルを自分で作ることと、マニュアルの作り方を自分で会得すること放棄し続ける限り、好パフォーマンスの持続的な創出はあり得ない。
最近イチローが頭を丸めているのは、件の技術的かつ精神的苦痛に打ち克つ修行僧足らん意志の表れに違いない。


P214
人生で満点の答案は書けない。
だから、壁にぶち当たっても逃げるな。


ところが、口で言うほど答え探しは楽ではない。何かの壁や困難にぶち当たって、そこを切り抜ける答えが見つからないと、「これができなくても、自分はほかのことができるからいいや」と思って逃げてしまいがちだ。しかし、一度逃げてしまうと、物事をそこから先に進めることはできない。

目の前に高い壁があったとしても、それを乗り越える方法はいくつもある。ハシゴを持ってきてもいい。壁に沿って壁がなくなるまで歩けば、回り道になるが向こう側へはたどり着ける。ダイナマイトで壁を爆破させても、地面に穴を掘ってもいいだろう。とにかく考えてアクションを起こせば先に進める。だが、そうする前に「ダメだ」と諦めて帰ってきたら、何も得るものはない。

私たちの中で、目の前の壁の向こう側へ行くのに、ハシゴを持ってくることや、壁を一回りすることを着想する人は相応に居るだろうが、ダイナマイトで壁そのものを無くしてしまうことや、穴を掘って地面越しに行くことを着想する人はそうそう居ないだろう。
要するに、私たちが平凡なパフォーマンスしか出せないのは、問題解決へ向けて着想、実行するのが、専ら前者の様な正攻法だからだ。

では、なぜ、落合さんの様な非凡は、問題解決へ向けて、後者の様な非正攻法を臨機応変に着想、実行できるのか。
一番の理由は、目標達成に対する執念と試行錯誤が尋常でなく、落合さんが言う「感性」が絶えず研ぎ澄まされているからではないか。
凡人が凡人足り得るのは、専ら「できない理由」探しに明け暮れ、目標達成に対する執念と試行錯誤の放棄や挫折を自己正当化し、自ら感性を退化させているからではないか。



コーチング―言葉と信念の魔術
落合 博満
ダイヤモンド社
2001-09




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2013年10月24日

【野球】「落合博満の超野球学〈2〉」落合博満さん

P131
技術事はパーフェクトを求めよ

かつて「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治さんには、次のような名言がある。

「ボールが止まって見えた」

これは、不調に喘いでいた際、当時の多摩川グラウンドで長時間の打ち込みを敢行した時に、初めて体験したことだそうである。
20年間の現役生活で9257打席に立った私は、残念ながら”ボールが止まって見える”状態を体験することはできなかったが、どんなボールがきても打てる、言い換えれば自分の思い描いたように投球が飛び込んでくるという状態はシーズンに何度かあった。
苦手にしている投手との対戦で、普段は「ここに投げられたら苦しい」と感じているボールでも難なく打ち返せる。
ヒッティングゾーンが広く、打ち損じも少ない状態である。
たとえれば、水道の蛇口から水を流して、細い口のビンに入れようとすると、かなりの量の水が弾けてこぼれてしまう。
これがバッティングで言えば普通の状態だ。
私の体験した最高の状態は、ビンの口に広い漏斗とつけ、すべての水が確実に無駄なくビンに吸い込まれていくような感じである。

川上さんや私がバッティングを極めたのかどうかはさておき、ボールが止まって見えたり、どんなボールでも難なく打ち返せる状態を経験していながら、終身打率は川上さんが.313、私が.311。
3割強の成功率で「超一流」と呼ばれたことを考えれば、バッティングとは実に難しいものである。
では、超一流と言われる領域まで辿り着けた最大の理由は何か。
私で言えば、バッティングという技術事にパーフェクトはないという現実をわかっていながら、常にパーフェクトを目指す気持ちを失わなかったからではないだろうか。

パーフェクトなバッティングとはどういうものか。
打率10割というのは、完璧にボールをとらえても野手の正面を突いたら実現しない。
反対に、止めたバットに当たった打球が野手の間に運よく落ちることもあるわけだから、すべての打席でヒットを記録することとパーフェクトとは違うと言えるだろう。
私がイメージするパーフェクトなバッティングとは、何試合を戦っても三振しない技術を身に付けること。
そして、ストライクがくれば決して空振りすることなく、全打席で本塁打を放つことである。
その本塁打も、ほとんどはバックスクリーンへ一直線の打球。
やや泳いだ時だけレフト、反対に詰まった時だけライトに飛ぶ状態なら、本当にパーフェクトと言える。

パーフェクトなバッティングを追及するために、私はどんなことを考えていたか。
ミートポイントを実例にして書いてみよう。
まず、本書でこれまでに書いてきたような理屈で、自分のミートポイントというものを探す。
次は、フリーバッティングの際に、そのミートポイントでボールをとらえる練習をひたすら繰り返す。
この時に、自分のミートポイントでバットが当たる瞬間を見る努力をすることが極めて重要だ。
野球経験のある読者の方は、思い浮かべていただきたい。
実戦において、バットにボールが当たる瞬間を見た経験はどれくらいあるだろうか。
ちなみに私は、9257打席で何回と数えられるほどしかない。
それも、ほとんどが緩い変化球に体が泳いでしまい、それでもなんとかボールを拾おうとした体勢の時に見たものだ。
150キロを超えるストレートを完璧に打ち返して本塁打になった時でも、ミートポイントでバットにボールが当たる瞬間を見た経験はない。
つまり、ほとんどはカンに頼って打っているわけだ。
カンという表現がよくないのなら、体にしみついた動きと言い換えてもいいだろう。

技術事は、やみくもに取り組んでも上達は望めない。
まずは理にかなった動きや基本と言われるものをしっかりと学び、理屈に基づいて鍛錬に励むことが肝要だ。
ただし、繰り返し練習することの最終目的は、その動きを体にしみつかせることなのである。
つまり、技術事は理屈に始まり、体にしみつかせてものになると考えればいい。
だから、ミートポイントに関しても、フリーバッティングにおいては一球一球、そこでバットにボールが当たっているかどうかを確認しながら打つ努力をしなければならないのだ。
これを疎かにしてしまうと、自分のミートポイントはいつまでたってもつかめない。
よって、実戦でカンに頼って体にしみついたスイングで打ち返す精度も上がらないのである。
技術事で上達を目指すのなら、常にパーフェクトを求める気持ちだけは忘れてはならない。

要するに、落合博満さんが仰りたいのは、バッティングは、実戦では詰まる所「カン」、即ち、「体に染み付いた無意識的な動き」が問われるからして、事前の練習では、正しいバッティング理論をベースに、いついかなる球でもパーフェクトに応えようとする心意気は勿論、そのための反復練習と個別検証が欠かせない、ということだろう。
落合さんのお考えは、バッティングだけでなく、ビジネスにも通じる。
例えば、営業も、お客さまを目の前にした売り場(現場)では詰まる所「カン」が問われるからして、日頃のロールプレイングでは、あるべき営業プロセスをベースに、いついかなるお客さまの問いかけにもパーフェクトに応えようとする心意気は勿論、そのための反復練習と個別具体的なレビューが欠かせない(→「大体良かったです」でレビューが終わるロールプレイングを毎日何回やっても、お客さまに対する「カン」は全く陶冶されない)。
営業は、ロールプレイングで100点を目指し、100点を取れるようになって初めて、売り場で60点のパフォーマンスが可能になるが、きっと、バッティングも。野球も同じだろう。
何事も優れたパフォーマンスを出すには、最善を尽くして天命を待つほか無いが、最善を尽くすには、絶えず100点を目指す反復練習に専心し、然るべきロジックを体に染み付けることが欠かせないに違いない。



落合博満の超野球学〈2〉続・バッティングの理屈
落合 博満
ベースボールマガジン社
2004-03




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2013年10月23日

【経営】「出光興産の自己革新」坪山雄樹さん、大久保いづみさん

P111
第2節と第3節では、出光がグループ全体で有利子負債2兆5000億円を抱える深刻な財務状態に陥った背景には、出光の文化的・組織的な要因があったことを論じた。大家族主義・独立自治という理念のもと、「信じて任せる」という文化を反映した強い縦型の組織体制になっており、それが各部門の個別最適追求の行動を許してしまい、個別に見た場合には組織的な検討が不十分な設備投資や、集計した場合には過大な設備投資額を生み出していたのである。

しかし、この各部門の個別最適追求とそれを許容する組織は、たしかに出光の文化に起因してはいたものの、前章で論じた(創業者の出光)佐三の理念と合致するものではない。前章で論じたように、独立自治とは全体の目標・方針のもとでの独立自治であり、各自が好き勝手に仕事を進めることではないからである。「相互信頼の観念をはき違えて、相互放任の弊に陥っている」という、佐三の存命中にも生じていた理念についての誤解がまさに発現し、財務的な危機を生んでいたのである。

前章で論じた佐三の理念とそれに基づく慣行は、佐三が自ら一から考えてつくっていったものである。一般的な企業の常識からは大きく外れているとはいえ、その背後には哲学者・思想家ともいえる佐三の深い人間理解と経験と論理があり、人間の能力を最大限発揮した能率的な企業運営を目標とする合理的なものであった。しかし、佐三が亡くなり、やがて佐三から直接薫陶を受けた世代も会社を去っていく中で、理念・慣行の背後の論理が誤解されることや、あるいは背後の論理が十分に語られぬまま「うちの会社はこうなんだ」「こうあるべきなんだ」と盲目的に現状の慣行に従うことなどがあったのではないかと考えられる。これは、理念・慣行の本来の合理性の部分が弱まっていたことを意味する。一般的な企業の常識とは異なる、佐三が一から考えてつくり出した独自の理念・慣行であるがゆえに生じる負のダイナミクスである。

P136
佐三は、社員への戒めにも芸術を多用した。たとえば、前出の「指月布袋画賛」を用いながら、彼は社員に対して次のように述べている。

「君たちは布袋さんの指を見ているじゃないか。指(=枝葉末節)を見ないでお月さん(=大局)を見よ。出光は石油業という商売、金もうけをしているんじゃない。国家社会のため、消費者のため、製油所のある地元のためにやっているんだ。根本を忘れるな」

このように、佐三は事あるごとに芸術作品やその背後にある芸術家の生き方を例にしながら、社員に対して出光の経営のあり方を説いていた

経営で一番大事なのは、徹底だ。
目標(ビジョン)や戦略は、詰まる所何でもいい。
とにかく、それらの内容とその背景(そうすべき理由)、そして、その基盤たるトップの経営哲学(経営理念/根本思想)と価値観を、側近の参謀からプロフィットセンターである現場の末端まで寸分違わず合理的かつ感情的に浸透させ、社内を、企業を、絶えず一枚岩の燃える金太郎飴軍団に化しておくこと。
この徹底こそ、トップの一番の任務だ。

徹底でとりわけ大事なのは、「現状に満足しない(現状をよしとしない/現状を絶えず懐疑する)こと」と「本質を譲らないこと」だ。
出水佐三さんが、事ある毎に芸術作品やその芸術家の生き方を例示し、社員に経営理念を説いておられたのは、そういうことだ。
トップから現状に対する耐え難い問題意識が絶えた時や、自社の存在理由を一社員に適宜説教する気概が絶えた時、或いは、トップの代わりに、トップの後を継いでその任を積極的に果たす人が絶えた時、社内は、企業は、烏合の衆と化すに違いない。







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2013年10月22日

【日本経済新聞社】「第61期王座戦第五局▲羽生善治王座△中村太地六段」藤井猛九段

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45手目、)挑戦者の中村太地六段は△4三金と穏やかに指さず、4五歩と指した。
この手は、「さあ、攻めて来い!」と、羽生善治王座に攻め(▲5五銀)を催促した手で、中村六段の強い気合が感じられる。

(中略)

夕食休憩直前の大事な着手は、休憩中、相手が時間をかけて応手を考えられるため、基本不賢明だ。
しかし、(83手目、羽生王座の▲9五角に対して、)中村六段は、夕食休憩を前に△8二角と応じた
前局(第四局)は大変な熱戦で、中村六段は終に落としてしまったが、勝ちの順が在った様だ。
中村六段は、その根本原因を怯み、気合不足と考え、本局では「気合負けだけはしたくない!」と強く思っており、それがこの手に表れたのではないか。

やはり、「棋は対話なり」であり、だから、とりわけトッププロの将棋は面白いし、考えさせられる。
ともあれ、着手に限らず行動、具体は、必ず目的、本意の表出、並びに、達成の手段、決断であって然るべきだ。


羽生王座は中村六段に負けられない。
中村六段が(羽生王座に)勝つと、「同様に、自分も羽生に勝てるのではないか」と思う若手が次々に出てくる。

成る程、だから世代間闘争は、堰を切ったように終結する場合が多いのだろう。
先人が悉く後進を負かすのは、「若い芽を摘む」のが主眼かつ本質かもしれない。



★2013年10月21日催行
※1:上記の藤井九段の言は意訳
※2:解説女流棋士は安食総子女流初段
http://kifulog.shogi.or.jp/ouza/2013/10/post-c17e.html

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kimio_memo at 09:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 将棋大盤解説会 

2013年10月21日

【シンポジウム】「大腸がん 最新情報を知ろう」田中信治さん(広島大学大学院医歯薬保健学研究科内視鏡医学教授)

※シンポジウム終了後の、「私は数ヶ月前、結果的に良性であったものの、大腸の内視鏡検査でポリープを摘出しているのだが、今後大腸がんの罹患を防ぐには、具体的にどういった生活習慣を心掛けると有効か?」との個別質問に対して
酒を呑み過ぎない。
運動不足にならない。
赤身の肉を食べ過ぎない。
太り過ぎない。

やはり健康体の維持こそ、万病予防の最上かつ基本だ。
病気、天災、あらゆる問題は、基本を忘れた頃にやって来る。


★2013年10月19日日本医師会館で催行
http://info.shioya.verse.jp/?eid=7
※上記の内容は意訳

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kimio_memo at 06:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 講演/セミナー 

2013年10月18日

【野球】「采配」落合博満さん

P74
采配は結果論。
事実だけが歴史に残る


私の采配について何かを論じようとする時、必ずと言っていいほど出てくるのが2007年の北海道日本ハムとの日本シリーズ第5戦のことだ。8回まで一人の走者も出していない先発の山井大介を、9回に岩瀬仁紀に交代させた采配に関して、である。

メディアなどでは「幻の(山井の)完全試合」「山井交代の賛否」などと騒がれた。

結論から言えば、私は今でもこの自分の采配を「正しかったか」それとも「間違っていたか」という物差しで考えたことがない。ただあるのは、あの場面で最善と思える決断をしたということだけである。

(中略)

私の中にあったのは、何としてでも日本一を勝ち取ろうという思いだけだった。

(中略)

なぜなら、この日本シリーズの流れを冷静に見ていった時、もしこの試合に負けるようなことがあれば、札幌に戻った2試合も落としてしまう可能性が大きいと感じていたからだ。

(中略)

プロ野球OBの立場で言えば、多くのファンと同じように、私も山井の完全試合を見たかった。

記録やタイトルが選手を大きく成長させることも身をもって知っているだけに、「せめて3、4点取っていれば、山井の記録にかけられるのに」と思ったのも事実だ。

しかし、私はドラゴンズの監督である。

そこで最優先しなければならないのは、「53年ぶりの日本一」という重い扉を開くための最善の策だった。あの時の心境を振り返ると、「山井は残念だった」というよりも、「ここで投げろと言われた岩瀬はキツいだろうな」というものだったと思う。

(中略)

この采配については、直後から様々な意見がメディアを賑わせた。

私の采配を支持した人には日本シリーズを制した監督が多いな、ということ以外、メディアや世間の反応については、どんな感想を抱くこともなかった。

どんな展開でも、采配というものは結果論で語られることが多い。

事実、あの采配も、万が一負けていたら、それこそ私は袋叩きに遭っていただろう。いや、違った采配をした結果を現実として見られない以上、結果論でしか語れないという側面が大きい。監督が私でなかったら、山井の完全試合で日本一になれたのかもしれない。あるいは、山井が打たれて逆転され、私が懸念したように札幌でも破れて日本一を逃したのかもしれない。

しかしーー。

すべては、あの場面で私が監督として決断し、その結果として「ドラゴンズは日本一になった」という事実だけが歴史に残るのだ。

責任のある立場の人間が下す決断ーー采配の是非は、それがもたらした結果とともに、歴史が評価してくれるのではないか。ならばその場面に立ち会った者は、この瞬間に最善と思える決断をするしかない。そこがブレてはいけないのだと思う。

「こんな判断をしたら、周りから何と言われるだろう」

そうした邪念を振り払い、今、この一瞬に最善を尽くす。
監督の采配とは、ひと言で言えば、そういうものだと思う。

今は、「医師受難の時代」だ。
医師は、問診や検査に基づき、合理的に患者の病状を切り分け、病因を特定し、最善と判断した治癒を行う。
しかし、患者は人間であり、一人一人異なる肉体、病状、病因を持っているばかりか、絶えず変化している。
病状の切り分け、病因の特定、最善治癒の判断は、詰まる所確率論に拠る二者択一であり、オプションが在り得る。
ゆえに、医師は、いかに合理的にそれらを進めても、結果から遡って各々の選択が正解だったか問われる可能性が在り、今は結果が悲劇だとその旨忽ち訴えられてしまう。
医師の多くは、私たちが思うほど多くない収入で、自分の身と家族を犠牲にして日夜働いており、その挙句にかくして結果論と情緒で訴えられてしまっては割に合わず、然るに今は「医師受難の時代」という訳だ。

落合博満さんのお話から気づかされたのは、今は「プロ野球監督受難の時代」でもある、ということだ。
落合さんが、中日の監督として、2007年の日本シリーズ第5戦9回表、完全試合目前の山井大介投手を岩瀬仁紀投手へ交代した采配は、ご本人も仰るように、勝利を一義に託されたはずの現場責任者としての、確率論に拠る最善の判断に違いないが、チームが見事勝利し、結果が吉と出たにもかかわらず、遡って判断の正解性を問われては、それはもはや嫉妬と言いがかりであり、同情するほか無い。
現場は、他と同一局面があり得ないことに加え、絶えず動いており、判断が刹那に求められる。
現場責任者の判断は、基本合理と確率論に基づく最善なそれであって然るべきであり、それを結果論と情緒で正解であったか問うのはナンセンスかつ酷だ。

その他、落合さんのお話から気づかされたことが二つある。

一つは、「勝負の方程式」はあり得るが、よく言う「勝利の方程式」はあり得ない、ということだ。
先述の通り、合理と確率論で最善を重ねていけば確実に勝負になるが、何をどうすれば確実に勝利するということはない。
つまり、勝負の十分条件はあり得るが、勝利の十分条件はあり得ない、ということだ。
勝利を得るには、勝率を高める以外なく、ついては、「勝利の方程式」を無いものねだりするのではなく、合理と確率論で最善を重ねる「勝負の方程式」に従順になるのが最善だ。

もう一つは、現場責任者は、判断の真の評価を後世に託し、その苦渋を癒している、ということだ。
現世利益を一番に望む人は、現場責任者として不適格なのかもしれない。


P95
大切なのは、勝ち負けよりも勝利へのプロセス

監督としてドラゴンズをリーグ優勝や日本一に導いた。野球殿堂にも入った。本当に充実した野球人生だ。しかし、それだけで自分が人生の成功者だとは思っていない。

プロ野球選手という仕事は、目立つ実績を残した者よりも、何の実績も残せずに消えていった者のほうが圧倒的に多い。それでも、違う世界で名を成した人は大勢いる。その人に向かって「プロ野球の負け組」と言う人がいるだろうか。むしろ、当の本人がプロ野球選手として大成したなかったという事実を上手く利用し、悔しさをバネに、世の中を渡っている「勝ち組」ではないだろうか。

人生はどこでチャンスが訪れたり、自分を生かせる仕事と巡り合えるかわからない。そう考えれば、仕事で思い通りの実績を上げられなかったり、希望の職種ではなかなか採用してくれる企業がなかったり、志望校に合格できず浪人している人たちも、決して「負け組」ではなく、勝利を目指す道の途中にいる人だと考えられる。

(中略)

つまり、道の先にある「勝利」の定義とは、人それぞれなのだ。

もっと言えば、「勝利」の正体が何なのか、すべてわかった上で突き進んでいる人などいないのだと思う。だからこそ、大切なのは、現時点の自分が「勝ち組」なのか「負け組」なのかと自覚することではなく、ただひたすら勝利を目指していくこと。そのプロセスが人生というものだろう。

要するに、落合さんのお考えは、「勝利は『得るもの』というより、人生で最後に笑うために『目指すもの』」、ということだろう。
たしかに、人生は長く、自分のニーズや興味関心も絶えず変化する。
「得られる」目先の勝利が全人生に与える好影響は知れており、それよりも、遠い道の先の見えない勝利を終生「目指す」方が、全人生に与える好影響は大きいのかもしれない。


P175
現場の長は、「いつも」ではなく「たまに」見よ

コーチングの基本は「見ているだけ」だと、前著『コーチング』で述べた。

監督を続けていると、この考え方にも応用編があると実感している。

新たに入団してきた新人選手や成長途上の選手については、コーチと私の間で、「本人がアドバイスを求めてきたら、こう指導しよう」という方針は決めてある。その上で、コーチは毎日の練習をじっくり観察し、必要があれば選手にアドバイスをしていく。では、現場の責任者である私はどうするか。「たまにしか見ない」ことが大切なのではないかと思っている。

スポーツの世界でもビジネスの世界でも共通しているのは、現場の長がいる時は組織全体の雰囲気がピリッとすることだろう。普段はなあなあでやっているという意味ではない。ドラゴンズの練習は、私が姿を見せなくてもしっかり行なわれていた。だが、第三者からは「監督がいるのといないのとでは、練習の雰囲気がまったく違いますね」と言われる。これは、どのチームでも、誰が監督でも同じようなものだと思う。

私があまり練習を見ないようにしたのは、そうしたピリピリした雰囲気を無用に作りたくないからだ。私が練習を見に行くと、選手よりもコーチに緊張感が走り、普段より練習時間が長くなってしまう。そんな状況が続くと、選手もコーチも身が持たないだろう。さらに私は、練習が終わったあともコーチ陣に「今日はどうだった?」といった類の質問はしない。

「やるべきことさえやってくれれば、その方法やかける時間は任せるよ」

そう伝えておかないと、私が現場に行かなければ何も判断できなくなってしまう。その代わり、練習に出て行った時は遠慮せず徹底的にやる。

「おまえが好きなだけ打ち込んで構わないよ。時間を気にせず、納得するまでやりなさい」

選手にはそう言葉をかけ、チーム付のマネージャーに練習場を使える時間を確認し、必要があれば延長してもらう。選手もコーチも、私の姿を見つけると「今日の練習は長くなるな」と覚悟するらしい。

それでいいのではないか。

私が現場にいるのか、いないのかを練習のメリハリにすればいいし、選手たちが自分自身で責任を持って練習に取り組むことが大切なのだから。

ただ、選手はしっかりと練習しながらも、「取り組んでいる練習は自分に合っているのか」とか「練習の成果は出ているのか」と感じ、私にチェックしてもらいたいと考えることがあるかもしれない。私は選手のバッティングフォームが以前に比べてどう変化したのか、体の使い方がどうなっているのかを見ることになる。その際、変わるべき部分と変わってはいけない部分を見極めるためには、毎日見ているよりも何日かおきに見たほうがいいということに気づいた。

普段の練習ではコーチがしっかり観察しているから、選手が私にアドバイスを求めてくるのはフォームの修正など大きなテーマであるケースが多い。つまり、見落としがあったり、間違えたアドバイスをすることが許されない状況なのだ。それだけ責任の重いアドバイスをするには、その選手を四六時中見ている目よりも、たまに見ている視点が必要なのではないかと感じている。

このように現場に無用な緊張感を走らせないためにも、自分が的確なアドバイスをできるようにするためにも、現場の長は一定の時間をおいて現場を見ることが大切だと思う。

「うちの監督はあまり練習に来ないよな。どこかで遊んでいるんだろう」

選手からそう思われている監督でいいのだ。

「組織の責任者足るもの、頻繁に現場を訪れるべし」との風潮ができたのは、日産のカルロス・ゴーン社長が「ゲンバ」というフレーズを多用し、メディアに訪問のさまを披露してからの様に思えるが、ゴーン社長の様な「現場に通じていない責任者」の現場訪問は、本質的には本人と組織のPRを超えず、現場の人たちからすると迷惑以外ない。
組織の責任者足るもの、本当に現場を頻繁に訪れたければ、現場に精通し、具体的に現場の役に立てるようになることが先決だ。

しかし、組織の責任者の一番の任務は、現場を訪れることでは決してない。
責任者は、現場を訪れ、それらしい振る舞いをしていると、仕事をしている様な気持ちになるが、それは誤解だ。
責任者の一番の任務は、組織の目標(ビジョン)とその戦略を策定し、側近の参謀から現場の末端まで浸透、合意形成させることであり、現場訪問はそれらを果たす一手段に過ぎない。
然るに、現場訪問に時間の過半を割いている責任者は、自らの本分を果たしていない可能性も高く、落合さんのお考え通り、「責任者足るもの、現場はたまにしか見なくて丁度良い」のかもしれない。



采配
落合博満
ダイヤモンド社
2011-11-17




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2013年10月16日

【野球】「執着心」野村克也さん

P3
1990年にヤクルトの監督に就任するにあたり、私は「ID野球」というスローガンを打ち出した「Important Data(データ重視)」--すなわち、「この投手はカウントが3-1になるとカーブでストライクをとってくる傾向がある」といった情報を収集し、実戦で活用する野球である。幸いなことに現在この言葉は野球ファンの間に広く浸透しているようだが、なかには「感情を排した機械的な野球」というイメージをもたれている方もいらっしゃるかもしれない。

しかしそれは全くの誤解である。ID野球の前提になるもの、それは勝利への執着心である。妥協な く勝利を追及することが、データ重視や、個人本位のプレーを控えてチームのために尽くす姿勢を生む。特に、戦力で劣るチームが強者と戦って勝つためには、 この執着心が絶対に欠かせない。

野球に限らず、勝負事の方法論、即ち、「勝負哲学」は世の中に数多存在するが、首をかしげてしまうモノが少なくない。
その手のモノの共通項の一つは、「ゴールが不明なこと」と「方法論とゴールの結び付きが弱いこと」だ。
イチローの特異なバッティングフォームは、「出塁すること」という小ゴール、並びに、「チームの勝利に貢献すること」という大ゴールに対する強靭な執着心から帰納的に生み出されたものであり、然るに、イチローにとってのみ最有力な訳だ。
ともあれ、「ID野球」とは、「感情を排した機械的な野球」の真逆の、「監督以下全選手の心理変化を絶えず読み解く、チームの勝利に対する執着心を大前提にした野球」に違いない。


P196
巨人、再びデータ不足暴露
1976年10月25日 日本シリーズ第2戦(阪急VS巨人)

この日の山口は不調だった。巨人は八回一死後、高田、張本の四球を足場に1点を返した。四球を手がかりにつぶす。これは山口攻略の一つのパターンだ。巨人は それを見つけておきながら、九回先頭の矢沢が2球目を簡単に打った。こんなことはV9時代にはなかった。あのころはもっと粘りがあった。粘りとは、いかにして次の打者につなぐかということだ。いまの巨人にはそれができない。

成る程、チームプレーにおける「粘り」とは、「好機を絶やさない」ということか。
チームの勝利は、プレイヤーの粘りが連鎖した賜物に違いない。


P215
井本対策のデータが活かせなかった広島
1979年 日本シリーズ第1戦(広島VS近鉄)

とくに五回以降のバッティングには首脳陣の責任もある。日本シリーズは互いに手の内の読み合いだ。早く読んで決断を下すことが大事である。「どうすれば、井本攻略ができるか」を考えれば、先述した結論を実行に移さねばなるまい。スコアラーが傾向を察知し、打撃コーチが攻略法を出す、そして監督が決断を下す。 広島はそれができていなかった。

苦しんでいるときに指示を与えられれば、打者は迷いを捨てられる。逆手をとられて失敗しても責任は指示を与えた側にあり、選手は非常に気持ちがラクになるものなのだ。そういうことをやるのがデータの威力である。苦しいときほど生きてこなければウソで、情報では優位といわれた広島だが、その処理のしかたに一考が必要である。

勝負事は詰る所博打だが、安定的に、或いは、持続的に勝利するには、確率論に則るのが賢明だ。
確率論という合理に則れば、決断がイチかバチかではなく、自信を持ってできるし、結果も均せば最悪に成り難い。
合理の最大のメリットは、人を暗中模索と最悪事態から解放することだ。


P245
伊藤、福間が防げた本塁打
1985年10月30日 日本シリーズ第4戦(西武VS阪神)

この時、土井コーチがマウンドの伊藤のところへ行っている。この場合の仕事は〔1〕勝負するかどうかベンチの意思を伝える〔2〕くさいところをついて、カウントが悪くなければ歩かせろという指示をする〔3〕配球の指示の確認ーーこの3つである。土井コーチは、外角一辺倒で攻めろと言ったという。〔3〕だ。 (〔2〕はできるだけ避けた方がよい)。

ところが、よく考えてもらいたい。伊藤のコントロールの能力からいって、外角一辺倒という指示に応えてくれる技術を持っているかどうかだ。答えは「ノー」である。結果は外角をねらい、それがコントロール・ミスで、真ん中に入ったスライダーを打たれてしまった。

ここでは〔1〕の判断をすべきであった。

選手の能力に合わないベンチの指示ミスは西岡のホームランのところでも出ていた。吉田監督はマウンドの福間に、勝負しろ、と言ったという。福間はその前の八回、無死満塁という大ピンチに登板。ものの見事に無失点に抑える素晴らしいピッチングを披露している。調子に乗るなと言う方が無理なほど乗っていた。そこへ、勝負の指示。つまり〔1〕の選択である。これではよけい乗ってしまう。ここでは〔2〕、〔3〕の指示だ。福間ならこれは可能。調子に乗り過ぎた福間は自信のあるカーブをこれでもかと投げ込み、決勝の2ランをくらった。

大胆さは必要だが、ここは慎重さが最も要求されるところ。大事な場面では、繊細、かつ大胆さを、と言われるゆえんである。吉田監督が慎重さを忘れていなかったら福間への指示ミス以前、広橋が代打に出たところで中西を投入し ていただろう。吉田監督までも福間同様、調子に乗り過ぎていた。そのため、技術ばかりを選手に要求、本当の目的を見失っていた。技術というのものは、いくら高度であっても、しょせん目的の下である。

要するに、相手に闇雲に高度な技術を指示、要求するのは、相手に成功をもたらさないばかりか、大ゴールであるチームの勝利を遠ざける、ということだろう。
技術の指示、要求は、相手の能力レベルに依存して然るべきだ。


P257
失投が出る3つの原因
1987年10月26日 日本シリーズ第2戦(巨人VS西武)

勝負は、3本の長打で、決まった。石毛、秋山の本塁打、そして伊東のタイムリー二塁打だ。

すべて、甘い直球。しかも長打を警戒しなければならない場面で、打たれたものだ。なぜだろう?

ピッチャーに失投が出る原因は、3つある。
〔1〕捕手の思考と投手の思考にズレが生じた場合
〔2〕直球のコントロールの信用性
〔3〕ふだんの取り組み方


(中略)

いずれも、表面的な原因は〔2〕に求められる。この点は山倉が十分に感じていたはずだ。しかし秋山のあと、白幡、安部に対して、西本は本来の制球力を発揮し た。そこに、山倉の錯覚が生まれた。再び、西本のコントロールを信用してしまったのだ。1-1から、また甘い速球が真ん中へ・・・。

投手には三段階の成長過程がある。「気迫、気力で投げている時期」→「1球の怖さ、を知って投げる時期」→「理をもって攻める完成期」だ。

改めて述べるまでもなく、すでに西本は最終段階の域に達している投手なのだ。それが、この日は初歩的な第一段階の投手に戻っていた。

もう一つ加えれば、西本は西武の下位打者に対して、ほぼ完ぺきなコントロールだった。ところが、上位の長距離打者に対しては、立ち上がりから微妙な狂いが生じていた。投球とは「気をつけなくては・・・」と思えば思うほど、”そこ”へ行ってしまうものなのだ。

山倉の意識は、その点にまでおよんでいただろうか?3本の長打には、〔1〕の原因も潜んでいる。

メディアによると、楽天の田中将大投手は、デビューしてから今が一番疲労感が無く、それは、投球のスタイルとフォームを変えたからだという。
具体的には、全てのバッターの全ての投球に全力投球するのをやめ、上半身に集中していた負荷を下半身へ一層分散するようにしたのだという。
本書の著者の野村さんから直接薫陶を得、絶えず成長した田中投手はもはや、三段階の成長過程の最終段階である「理をもって攻める完成期」に到達した達人であり、然るに、全プロセスには全力投球せず(メリハリをつけ)、絶えず余力を残せるに違いない。

また、「投手の失投の三原因」は成る程だ。
各事項は、以下の様に抽象化しかつ応用できそうだ。
〔1〕捕手の思考と投手の思考にズレが生じた場合
→合意の形成不全、混乱/迷いの払拭不全
〔2〕直球のコントロールの信用性
→基本技術/調子の担保不全
〔3〕ふだんの取り組み方
→事前準備の怠慢、平常心の会得不全


P269
シリーズ前の方針の違いが結果の違いに

1987年11月1日 日本シリーズ第6戦(巨人VS西武)

シリーズを迎える出発点から、振り返ってみよう。短期決戦というドラマを前に、まず、主役は誰か?だ。野球では当然、投手が主役になる。そこで第一のテーマは、先発ローテーションの組み方、となる訳だ。そして、これを起点に方針、作戦が定まっていく。

終わってみると、勝因、敗因の分岐点は、その出発前にたどり着いた。

桑田の第1戦の先発が物語るように、巨人は公式戦のトータル成績を重視して、このシリーズに臨んだ。これに対して、西武は「7試合」を考慮してのローテーションだった。

シリーズ前にも書いたとおり、「守って、攻める」森野球と「攻めて、守る」王野球、この発想の差が西武の4勝2敗という結果になった。極端に思われるかもしれないが、私は、この成績の7割以上はシリーズ前に決まっていた、と考えている。

それほど、方針の立て方は重要なのだ。結果論ではなく、巨人には4勝1敗で日本一を奪回できる目もあったはずなのに・・・と思う。

要するに、「戦術の失敗は戦闘で補うことはできず、戦略の失敗は戦術で補うことはできない」ということだろう。
勝敗を決するのは凡そ、「強い手」ではなく、「負けない手」や「負かされない手」を指し、かつ、終盤寄りに「悪手」を指さないことだ
勝利への執着心が強靭であればあるほど、戦略は「攻めて、守る」ではなく、「守って、攻める」が旨となる。







kimio_memo at 06:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 書籍 

2013年10月15日

【邦画】「舞妓Haaaan!!!」(2007)

〔ひと言感想〕
人は、切実な夢を持ってこそ、成長し、救われるのかもしれません。
人は、容赦無く断られてこそ、観念し、発奮するのかもしれません。
人は、粋に遊んでこそ、練磨され、粋に成るのかもしれません。


舞妓Haaaan!!! [Blu-ray]
主演:阿部サダヲ
監督:水田伸生
脚本:宮藤官九郎 
VAP,INC(VAP)(D)
2009-10-21




kimio_memo at 07:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 映画 

2013年10月11日

【NHK】「あさイチ」永井愛さん、大石静さん

(※劇作家/永井愛さんの、大石静さんに対する人物評)
友だちが結婚した時に「一言メッセージを送ろう」 というのがあって、みんなで書いた時があったんですけど、その時(大石)静が「夫婦はライバル」って書いていたのを見て、すごく印象に残っていて、「夫婦ってライバルなのか。。。」と思ったら、「それキツくないか?」って思ったんだけど、(そもそも大石静という人は)ライバルっていう風に夫を見立てることによって、自分をアップしていこう、っていう考えのある人だから〔・・・〕。

夫婦という関係性は、基本終身雇用(笑)であり、惰性と堕落の温床になり易い。
夫婦は運命共同体だ。
自分の運命が良くなれば、伴侶の運命もより良くなる。
夫婦の務めとは、自分の運命に責任を持つこと、そして、少しでも伴侶の人生をより良くすること、なのかもしれない。
然るに、夫婦はライバルであるくらいが丁度良い、のかもしれない。



★2013年10月11日放送分
http://www1.nhk.or.jp/asaichi/2013/10/11/01.html

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kimio_memo at 10:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0) テレビ 

2013年10月10日

【洋画】「アメイジング・グレイス/Amazing Grace」(2006)

〔ひと言感想〕
古今東西、難問を解決するには、大きな情熱と少しの狡知が有効かつ不可欠ですが、不正に対する盲目の懺悔が先決、ということなのでしょう。
盲目であって良いのは、伴侶の短所だけではないでしょうか。(笑)


アメイジング・グレイス [DVD]
主演:ヨアン・グリフィズ
監督:マイケル・アプテッド 
Happinet(SB)(D)
2011-09-02


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kimio_memo at 07:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 映画 

2013年10月07日

【人生訓】「間抜けの構造」ビートたけしさん

P184
占いにはまる芸能人が多い理由も、この世界が結果論だからだよね。おいらは信じていないけど。

なぜ芸能人が占い師とかあやしい神様にはまるかというと、どうして売れたかが自分でもよくわからないからなんだ。理由なんて頭でいくら考えてもわかるはずがない。

「実力があったから」なんて言う人もいるけど、実力なんてたかが知れている。だったら、実力があっても売れないやつの説明がつかない。実力以上の何かがないと、そこそこは売れるかもしれないけど、大ブレークはしない。嘘でもその理由を教えてほしくて、あやしいスピリチュアルとか占いにはまるんだよ。

同じぐらいの実力だと思っていたやつがいて、なんであいつが売れてこっちが売れないんだとか、その逆とかさ。「なんか絶対理由があるはず」と思っていると、どうしても目に見えない怪しいものに理由を求めて、すばっちゃうんだろうね。

(中略)

それは芸能人に限らない。人間というのは、何かと理由がほしい生き物だから。何かしようと思ったときに、何でも理由をつけたがるだろう。それこそ、今日は昼に何を食おうか、というときでも、「昨日は中華だったから和食にしよう」とか、「今日はもう行き当たりばったりで、最初に目に入ったものを食べよう」なんて、理由がないように見えて理由をつけている。

理由がないと、人間は動けないんだけど、一番肝心なことは絶対にわからない。それはこの世界に生まれてきた理由だよ。生まれて死ぬことに理由なんてないだろう。

「人は、結果論の肯定が不得手なばかりに、『行き当たりばったり』な思考と人生を素直に受容できず、何かと理由を欲求する」との北野武さんのお考えは、成る程であり考えさせられる。
私たちが、隙あらば(笑)「免罪符」に飛びつくなど、絶えず何かと自己正当化に躍起になっているのは、自分の思考と人生に自信が持てないからであり、これは、それらの「行き当たりばったりさ」を素直に受容できないからに違いない。
「これでいいのだ」と絶えず断言するバカボンのパパは、やはり天才に違いない。(苦笑)



間抜けの構造 (新潮新書)
ビートたけし
新潮社
2012-10-17


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kimio_memo at 06:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 書籍 

2013年10月03日

【日本経済新聞社】「第61期王座戦第三局▲中村太地六段△羽生善治王座」渡辺明竜王

(※「59手目▲8二銀棋譜〕に対して、▲8三銀として後手の飛車をイジめる&捕獲する手はあり得なかったのか?」に対して)たしかに、▲8三銀とすれば飛車は取れるが、これでは結局相手の飛車と自分の角を交換するだけで、他に特段狙いが無い。将棋は狙いの無い手を指してはいけない。

「王より飛車を可愛がる」というヘボの将棋指しを揶揄した言葉がある。
飛車という最も有用な駒を愛好する余り、最も大事な駒である王を疎んじ、結果、負けてしまう。
そうした目的と手段の混同や物事の優先順位の見極められなさ、そしてその本末転倒の愚を、この言葉は表している。

ヘボの将棋指しである私もやはり「王より飛車を可愛がる」に違いなく、▲8二銀より▲8三銀の方が優っているのではないかと思ってしまったが、渡辺明竜王の解説を拝聴し、間違いを思い知らされた。
また、同時に、「王より飛車を可愛がる」愚とその原因を改めて思い知らされた。
そうなのだ、「狙い」が無い、又は、曖昧なまま目先の利得や既存の習性(習癖)に脊髄反射し、ただいたずらに相手の飛車を取ろうとするのは、間違いかつ愚かなのだ。
行動や戦略が成立するのは、予め出口を合理的に想定した時しかあり得ない。



★2013年10月2日催行
※1:解説女性棋士は加藤桃子女流王座
※2:上記の渡辺竜王の言は意訳
http://blog.goo.ne.jp/kishi-akira/e/180512beb7ca09a8567242f22bc2c279



kimio_memo at 08:52|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 将棋大盤解説会 

2013年10月02日

【洋画】「ブラッド・ダイヤモンド/Blood Diamond」(2006 )

〔ひと言感想〕
「私を動かす」(笑)ダイヤモンドとその類は、専ら綺麗にディスプレーされているものの、「血塗られている」モノが少なくないのかもしれません。
動かされるままそれらを買い求めるのは、悲劇の上塗りと同義かもしれません。


ブラッド・ダイヤモンド [DVD]
主演:レオナルド・ディカプリオ
監督:エドワード・ズウィック 
ワーナー・ホーム・ビデオ
2010-04-21




kimio_memo at 07:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 映画