2011年10月

2011年10月31日

【BSTBS】「SONG TO SOUL 永遠の一曲」Boz Scaggs”We're All Alone”〔解説〕角松敏生さん

「AOR」なんていう言葉は、あれはもう日本人が勝手に考えた言葉なんですね。
レコード会社か何かが、宣伝文句で考えたんですよ。
で、AORっていうジャンルがアメリカにもあるのかなと思って、僕アメリカに初めて行った時に、AORって言っても全然通じなかったんですよ。
「(AORって)『Album-Oriented Rock』てしょ」って(しか返答されなかった)。
だから、まあ要するに、「シングルではなく、アルバムというトータリティに特化されたモノ」っていう意味で彼らは(AORを)捉えているですけど、日本人が勝手に「大人向きのロック」っていう意味で「Adult-Oriented Rock」っていうのを作ったんですけど〔略〕「新しい」イコール、「斬新」イコール「おしゃれ」というような概念に繋がっていくんじゃないかな、とは思うんですけどね。

(中略)

なんかAORっていうのは、ジャンルでもなんでもなく、観念だと思うんですよ。
イメージかな。
当時の大人が作り上げた幻影ですよ、ある意味、僕から言わせればね。
「恋愛の一シーンには必ずAOR」、ベタベタですけどね。(笑)
なんかそういう、何ででしょうねああいう曲をかけているだけで何かオンナにモテるような気になるみたいな、馬鹿馬鹿しい幻想がありましたからね、なぜか知らないけど。(笑)

一つには、これに尽きると思うんですけど、やっぱり「大人が格好良く見えた時代」なんじゃないかな。
「早く大人になりたい。
大人になるためには、どうしたらいいのか。
大人になるためには、何を学べばいいのか、何を着ればいいのか、何を聴けばいいのか」とか。
そういうことが年少の者が年長の者にリスペクトをするという非常に健康的な文化だったと思う。
今は全く逆ですから。
「若けりゃいい」ってなってますんで。(笑)
そういったその当時の、ある意味健康的な文化が築いた素敵な風景っていうのかな。
だから、本当のAORっていうのは、その時代背景をきっちり脳裏に思い出せる人間じゃないと感じられないんじゃないかな、と思うんですよね。
ただ、一つだけ言えるのは、AORと呼ばれてきた音楽というのは、今にして聴いても非常に上質な音楽であるっていうことだけは間違いない。
素晴らしいミュージシャンが持てる才能をフルに発揮できた時代に、それを集約して作ったサウンドということは間違いないですから、貴重な記録の数々がそのAORと呼ばれているジャンルの中には間違いなくあると思います。

私は角松敏生さんのこのお話を拝聴するまで、AORを誤解していた。
そう、「Album-Oriented Rock」ではなく、「Adult-Oriented Rock」だと。(笑)
音楽に関する私の知見は知れており、誤解は他にも多数有るに違いない。(笑)

本件についていい訳をする気は毛頭無いが、たしかに、当時AORと称される音楽には、「Adult-Oriented Rock」と誤解するに足る大人の雰囲気が満ちていた。
そして、 角松さんが仰るように、AORを聴いているだけで、AORに通じていると錯覚するだけで(笑)、カッコいい大人になったような気が、女性にモテるような気がした

「オンナにモテたければ、洒落たバーへ行き、タバコを吸って(間を持たせながら)観念論を呟けばいい」。
これはモテ男の車内に必ずAORのカセットテープがあった当時、奥田瑛二さんが何かのインタビュー番組で仰っていたことだが、これは正しかった。(笑)
正確に言えば、このプロセスそのものも正しかったが、このプロセスの本質が正しかった。
若者にとって、未知の事柄や人生の真理をコストを厭わず教示できる大人はとてもカッコ良く、女性なら落とされて然るべきだった。(笑)

その未知の事柄の中に、AORは含まれた。
番組が紹介した”We're All Alone”が収録されている「Silk Degrees(シルク・ディグリーズ)」は、一曲たりとも捨て曲が無い。
ボズ・スキャッグスの歌は、現TOTOのメンバーの演奏と相まり、聴く者に唯一無二の艶めきを与えている。



そして、この艶めきこそ、先述の「大人の雰囲気」の源だった。
AORを聴くこと、AORに通じることは、歌謡曲やニューミュージックばかり聴いていた多くの若者にとって、大人の仮免許証を授かることと同義だった。(笑)

角松さんが当時を「年少の者が年長の者にリスペクトをするという非常に健康的な文化だった」と述懐なさっているが、当時をこうして振り返ってみると、たしかに健康的ではあったが、その健康さは合理的であったことに気づく。
当時の大人は、若者より明らかにモノを知っていた。
また、然るべきコストをかけ、良いモノを創り、若者にも希望と共に垣間見させた。
それができるのが一握りに限られたので、若者は、そんな希少かつ貴重な大人が殊にカッコ良く見えた。
そして、AORを聴き、一歩でも近づこうと背伸びした。
年少者が年長者を敬う健康的な文化が崩壊したのは、私を含む当時の若者の怠惰が元凶に違いない。


★2011年9月25日放映分
http://w3.bs-tbs.co.jp/songtosoul/onair/onair_46.html

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2011年10月30日

【BSNHK】「早過ぎたひと 世紀の伊達(だて)男 加藤和彦"」小原礼さん

さらに、2006年には、ボーカルに木村カエラを迎えて、伝説のサディスティック・ミカ・バンドを復活させた。
しかし、エネルギッシュなこの頃の加藤(和彦)に、親しい人たち違和感を抱いていた。
シニカルでエレガントで妥協を嫌うかつての姿はそこには無かった。

【坂崎幸之助さん】
やっぱり、柔らかく、円くなって昔の歌を、「あの素晴らしい歌をもう一度」を必ず大合唱みたいなコンサートをご自身が出るような人じゃなかった気がするんだけど、僕と演るようになってからなのかもしれないですけど、一緒にそういう昔の歌を演るようになってるっていうか、それまでの加藤さんのイメージとは違いましたね。

【小原礼さん(サディスティック・ミカ・バンド/ベーシスト)】
楽しそうだったんですけど、トノバン(※加藤和彦さんの愛称)にとってちょっとラク過ぎたのかなと思って、そのイベントに出るっていうことがね。
何ていうんですかね、昔の曲を、素晴らしい曲ですけど、昔の曲ばっかり演るわけで(当時加藤和彦さんは)「ラクだな」とは言ってました。
でも、それが決していい意味なのかどうなのか、僕にはわからないです。
「ラクだね、こういうの」って言ってました。

ミュージシャンに限らず、アーティストの本分は、唯一無二の感動価値を創り、大衆に提供することだ。
ゆえに、アーティストはみなマーケティングのプロであって然るべきだが、そのアプローチは大きく二つに分かれる。
一つは「マーケットイン」で、もう一つは「マーケットアウト」だ。
これらに優劣は無いが、短期的利益(社会貢献)や経済的成功を重視する人は前者を志向し、長期的利益や独自資質の開花を重視する人は後者を選好する嫌いがある。

私は、アーティストではないがマーケティングのプロで、後者を選好する。
なぜかというと、24才の時に命を拾い、命がいかにはかなく、いかに突然強制終了し得るものかを思い知ったからだ。
「人生は一度切りだ。
しかも、いつピリオドが打たれるかわからない。
今日かも、今かもしれない。
であれば、自分が心底やりたいことを、やるべきであると認めることを、今やり切りたい。
自分だからこそ創れる、自分が心底唯一無二の価値を認めるものを、その欠片を、今創り切りたい」。
私は、この旨不断に考え、刹那を生きている。

だから、私は、恐縮だが、サディスティック・ミカ・バンドの復活時、加藤和彦さんが「ラクだ」と仰っていたのが、とてもよくわかる。
加藤さんが創り、自ら演じた音楽は、いつも大衆より一歩先を行っており、全てが所謂「ヒット」した訳ではない。
加藤さんが選好なさったマーケティングのアプローチは、後者の「マーケットアウト」に違いない。
加藤さんにとって懐メロ大合唱コンサートは、今心底やりたいこと、やるべきであると認めることでなければ、心底唯一無二の価値を認めるものでもなく、過去に創った価値の焼き直しに過ぎなかったに違いない。
既存価値の焼き直しが心身に求める負担は、非既存価値の創造に比べ知れている。
加藤さんが「ラクだ」とお感じになったのは、自然かつ当然に違いない。

私は、サディスティック・ミカ・バンドの命名の由来を知らない。
しかし、もし加藤さんが命名主であったなら、「サディスティック」という言葉が含められているのに合点がいく。
終生サディスティックな人生を志向なさった加藤さんに、改めて敬意を表すると共に、改めて冥福を祈念したい。(敬礼)



★2011年10月15日放映分
http://www.nhk.or.jp/fm-blog/1000/97670.html

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2011年10月29日

【NHK】「ディープ・ピープル/音楽プロデューサー」秋元康さん

僕は、約37年間位ね、ずっとこの仕事をしてて、スターってやっぱり運を持っている人なのね。
SKEっていうドームがあるんですね。
そこにね、松井珠理奈ちゃんっていう、当時11才かな、オーディションで(来たんです)。



元々その子は49番、50人オーディションやる中で49番だったんですよ。
49番だったんだけど、カラオケマシンがちょっとトラブって、「その子の歌がちょっと出ないんで、50番先でもいいですか?」って言ったら、「いいですよ」って〔略〕別に大した話じゃないじゃん。
だけど、その松井珠理奈っていう子が、あまりにもスター性があったので、「50番の子が49番にして、最後に来て、最後にオオトリで現れたんだよね」っていうのが、多分エピソードになるんだと思うんだよね。
つまり、多分ね、スター性って、勝手に深読みすることだと思うんだよね。
「あの時こうだったんだよ!」っていうような伝説とかって、大体さ、そういうものだと思うよ。

「スター性とは、人(大衆)に深読みさせるものである」との秋元康さんのお考えは、成る程で、その通りだ。
秋元さんのお考えは、相変わらず本質的で、的を得ている。

「スター」と「素人」は紙一重だ。
なぜなら、両者共、そもそもは一大衆であるからだ。
では、一体何が、「スター」と「素人」を分かつのか。
主たるは、唯一無二の価値を創造する資質と大衆を深読みさせる物語の有無だ。
そして、秋元さんのような「仕掛人」と称される人の最大のミッションは、物語の欠片の持ち主を大衆の中から見出し、それを大衆が希求、評価、受容するべく脚色して喧伝することだ。
「今、大衆は、何を深読みするか、深読みしたがっているか?」
秋元さんは、無意識かつ不断にこの旨自問自答なさっているに違いない。


僕なんかは、「意外にいいね」って言われるのが一番好きなんですよ。
だから、たとえばAKBとかでも、みんなが「(アレって)アイドルだろ?」とか何とかだろうっていう風に言われるんだけど、(実際に音楽を)聴いたら「意外にいいじゃん!」とか「馬鹿にしてたんだけども、いや、曲すごいいいよ!」って言われるのが一番嬉しい。
それがなぜかっていうと、やっぱり、敷居を低くしないと、みんなが入ってきてくれないんじゃないかな、と思うんですよ。
「(これは)いいものですよ!」っていうと、何かこう敷居が高くなっちゃったりするじゃないですか。

秋元さんが、おニャン子クラブ以来、「素人いじり」(笑)、もとい、「素人のスター化」を選好なさるのは周知だが、それが「期待値マネジメント」を志向してのことであるのは非周知ではないか。
少なくとも私はこれまで全く知らず、目から鱗が落ちた。

ザ・プレミアムベスト おニャン子クラブ
おニャン子クラブ
ポニーキャニオン
2012-11-21


感動(価値)は、期待(値)と現実(値)の差分だ。
成る程、敷居が低ければ、期待値も低い。
そこで、ソコソコの高さの現実値が実現できれば、期待値との乖離を、つまり、感動を大きくできる。
つまり、「良い意味で期待を裏切り易い」、「肯定的な意外さを醸成し易い」というわけだ。
たしかに、敷居を低くすると、大衆からスルーされ、期待値が発生しないリスクはある。
が、「仕掛人」の秋元さんのこと、それは物語の喧伝でヘッジすればいい。

私は、秋元さんが「素人のスター化」を選好する一番の理由は、「日本人男子の自信の無さ」につけこんで(笑)、もとい、「日本人男子の分相応基準の低さ」を勘案してのことと、これまでずっと考えてきた。
秋元さんには、この場を借りてお詫びを申し上げたい。(礼)



★2011年9月19日放映分
http://www.nhk.or.jp/deeppeople/log/case110919/index.html



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2011年10月28日

【観戦記】「第70期名人戦A級順位戦〔第17局の2▲郷田真隆九段△佐藤康光九段〕風の郷田」椎名龍一さん

郷田(真隆九段)の将棋には必ずといっていいほどに「この手をやってみたかった」という序盤の一手が織り込まれている。
本局では▲3七銀~▲3五歩がそれで、「(後手の佐藤康光九段が)△4一玉型なら本譜の将棋を指してみようと思っていました」と郷田は言う。

自分が進んでみたい方向にとりあえず行ってみようとするのが郷田流と言えるのだろうか。
何にも縛られず、自分の進みたいと思う意思に身を委ねる。
郷田を漢字一文字で表すならばなんとなく「風」がふさわしいような気がしている。

正直、「風」と言うと、最初に想起するのは松本隆さんだが、成る程、「風の郷田」というのも言い得て妙だ。
主流かつ群雄割拠の情報戦を尻目に、一人風の如く、自分の価値観、感性を頼りに盤上をさすらう。
郷田真隆九段が、いまだコンピュータを使わずしてトッププロであり続けるのは、松本さんと同様、不断に風の如く、普遍の真理を求めさすらう果報かもしれない。



★2011年10月28日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/



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2011年10月27日

【NHK】「シリーズ・わたしが選ぶあの番組(2)/『おくのほそ道 池田満寿夫 みちのく紀行』」森村誠一さん

「今日もまた 未練の色や 秋の暮」

私は、朝ね、今日一日のスケジュールを立てるんですね。
それが夕方になってくると、殆ど毎日、スケジュールを完遂するってことはないんですね。
し残した仕事がかなり残っている。
そんな時に、(仕事が)煮詰まってきますとね、夕映えの色が、何か自分のし残した仕事に対する未練のように見えてくるんですよ。
だから、俳句はこういう所がいい所で、単なる天然現象が、夫々の人間の心理によってね、違ったものに見えてくるんですね。
僕には未練の色に見えるんです。

夫々の人間の心理(状態)によって違ったものに見えるのは、天然現象に限らず、森羅万象に当てはまるのではないか。
たとえば、信頼している人から注がれる酒は美酒にしか見えないが、信頼していない人から注がれる酒は毒酒に見えかねない。

同じモノが違って見えるのは、心理に限らず、問題意識や目標意識も大きいのではないか。
森村誠一さんが、社会に強い問題意識を抱いておられなければ、また、作品で問題の解決とあるべき社会の実現に寄与したい旨の高邁な目標意識を抱いておられなければ、朝計画した原稿が書き切れなかった未練を夕映えに見出すことは無かったのではないか。

故に、「あの人は、見ている所が違う」という言葉を耳にするが、実は誤りで、正しくは、「あの人は、見出す所が違う」ではないか。
心理や意識といった内面で見出す所が違うのは、人生の妙味ではあるが、無自覚の屈辱にもなりかねない。
森羅万象を違って見せる内面の違いは、無自覚の屈辱に対する危機感の違いではないか。



★2011年10月23日放送分
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2011/111023.html

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2011年10月25日

【NHK】「100分de名著 ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4回」斎藤環さん

就活も婚活もそうですけども、どうしても比較の発想になっちゃうんですよね。
こっちが大きいとかですね、こっちが安定しているとか、福利厚生がいいとか。
比較の話ばかりをしていると、私は、みんな、段々(ニーチェの言う)末人(まつじん)的になっていくというか、どっかしら、自分が置き去りになってしまう感じがするんですよね。
で、精神科医として言うんですけど、精神分析的には正しい生き方っていうのがあってですね、それは何かって言うと、自分の欲望を諦めないことなんですよ。
最後まで諦めないこと。
絶対譲歩しちゃいけないんですから。
ただ、一番難しいのは、さっきね、瀧口(友里奈)さんが仰ったように、自分が何が欲しいかわからないっていうことですよ。
これが最大の難点なんですよね。
自分の欲望は自分なんですよね、要するに。
だから「自分探し」イコール「自分の欲望探し」なんですよ。
結構難題なんですよ。
だけど、比較の発想を段々剥ぎ取ってですね、やめていけば、ひょっとしたら僕は見つかるんじゃないか、と思っているですけど。
やっぱり、どっぷりと受験の時からですね、就職、結婚に至るまで、ずっと比較の発想に慣れ過ぎていると、欲望が逆に見えなくなってしまうんですよ。
何とかそこを一回リセットするようなですね、キッカケを、旅行でも何でもいいですから掴んで欲しいなと思いますけれどね。

『自分探し』イコール『自分の欲望探し』」というのは、成る程かつ言い得て妙だ。
しかし、なぜ、私たちは、「自分の本当の欲望」、即ち、「本望」に気づきにくい、見過ごしてしまう、のか。

たしかに、斎藤環さんが仰るように、理由の一つは、「本望の達成に寄与すると思しき機能の選択肢が多いから」だろう。
大好きな異性にフラれ、身近な旧知の異性との逢瀬で週末を凌いだ経験は、誰にもあろう。(笑)

ただ、選択肢の多さで本当に問題になるのは、「凌いだ」自覚を忘れてしまうことではないか。
一人の週末を代替者で「凌いだ」という自覚を忘れなければ、しかと自分に課すことができれば、その異性と惰性的に付き合うようになることはなく、大好きな異性の再発見に努めるのではないか。

私たちが「凌いだ」自覚を忘れてしまうのは、目先の辛苦から逃れられた安堵についひたってしまうからではないか。
目先の辛苦から逃れられた安堵は麻薬であり、要注意だ。



★2011年8月31日放映分
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/01_nietzsche/index.html#box04

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2011年10月22日

【観戦記】「第70期名人戦A級順位戦〔第16局の1▲谷川浩司△三浦弘行八段〕「後手」が大苦戦」上地隆蔵さん

定刻7分前、(後手の三浦弘之八段に続き、先手の)谷川(浩司九段)が入室すると、対局室は心地よい緊張感に包まれた。
この日は朝から報道陣も多く、その中には珍しく新米の女性記者もいた。
初手。
谷川は十分に間を取った後、おもむろに着手の動作に入った。
これは谷川流の心遣いで撮影し易くするためだ。
カメラを構えていた女性記者は懸命にシャッターを切った。

将棋の肝は、相手が指したい手を封じることだ。
将棋が強い人は、これが上手い人だ。

相手が指したい手を封じるには、予め相手が指したい手を読み解けなければいけない。
相手が指したい手を読み解くには、相手の心情を正確に思いやらなければいけない。

谷川流の心遣い」から再認識したのは、谷川浩司九段が強く、人格者であられることだ。
相手の心情を正確に思いやり、それに、将棋では強く抗い、将棋以外では気持ち良く応える。
谷川さんが将棋界内外から厚く信用されているのは、当然に違いない。



★2011年10月22日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/



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2011年10月18日

【小説】「悪道」森村誠一さん

P401
人間は宿命という檻の中で競り合う動物であり、人生とは、その一つ一つが繰り返しの利かない試みなのであろう。

成る程かつ同感だが、果たして宿命の存在を認識して日々人生を送っている人がどれだけ居よう。
殆ど居ないのではないか。
私たちの多くは、自分に何らか宿命が有るなどつゆも考えず、ひたすら眼前の些事に脊髄反射して日暮らししているのではないか。

宿命の存在を認識している人と認識していない人を分かつものは何か。
一つは、問題認識の有無と強弱ではないか。

先程「些事」と述べたが、本来物事に些事など無い。
なぜなら、眼前に現れる物事には、ポジティブかネガティブかは別として、全て相応の発生理由が有るからだ。
発生理由がポジティブな物事は全て「希望」であり、ネガティブなそれは全て「問題」である。

では、なぜ、私たちの殆どは、発生理由がネガティブな物事を、問題ではなく些事と日々認識しているのか。
一つは、諦観から他人事と受けとめているからだ。
私たちが問題を問題と認識できるか否かは、眼前に現れる物事を悉く自分事と認識できるか否か、そして、発生理由の理解を試みる習性が有るか否か、有るならそれが強いか否か、に帰結する。

宿命とは一生を捧げる旨独断した問題解決の対象であり、眼前に現れた問題を悉く問題と認識したてん末である。
その存在は自分で宿す、自分で認識するものであり、他者から与えられる、知らされるものではない。
私たちは、宿命の存在を認識し、甲斐に満ちた人生を送りたければ、先ず眼前の問題をしかと問題と受けとめるのが賢明ではないか。



悪道
森村 誠一
講談社
2010-08-10




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2011年10月16日

【観戦記】「第70期名人戦A級順位戦〔第15局の1▲丸山忠久九段△三浦弘行八段〕工夫の駒組み」椎名龍一さん

対局開始前。
両対局者が将棋盤を挟んで座ったところで、三浦(弘之八段)がふいに「挑戦おめでとうございます」と丸山(忠久九段)に声をかけた。

丸山はちょっと意表を突かれたのだろう。
一瞬驚いた表情を見せたもののすぐに柔和な表情となり、ありがとうの意でほほ笑みを返した。
この対局が行なわれる数日前、丸山は竜王戦の挑戦権を獲得し、三浦はそのことを祝福したのだった。

A級リーグは2戦を終えて、三浦が1勝1敗、丸山は2敗。
丸山にとっては最悪のスタートとなったが、竜王挑戦は大きな弾み。
棋士というのは勝てば勝つだけ勢いが増すもので、ここからの丸山は怖い存在となる予感がある。
おそらく三浦にとっても「嫌なタイミングで丸山さんと当たったな」という思いがあったのではないだろうか。
三浦弘之八段の丸山忠久九段に対する声がけは、他意は無いのではないか。
三浦さんは、純粋に、丸山さんが群雄割拠を勝ち抜けた労をねぎらうと共に、丸山さんがタイトル復位の好機を勝ち得た喜びを称えたのではないか。
成功には成長が不可欠であり、成長には切磋琢磨が不可欠であり、切削琢磨には好敵手(ライバル)が不可欠である。
「好敵手を敬愛し格別の労と喜びに肯定的かつ積極的に応えることは、今、プロフェッショナルの棋士として、また、一人の人間として『できること』、『やるべきこと』であるに違いない」。
三浦さんは、純粋にこう考え、行動に移されたのではないか。

もちろん、これは、下手の横好きの(笑)の妄想だ。
しかし、純粋で、「後悔を最小化する生き方」を貫徹なさっている三浦さんのこと、私はそう信じたい。


★2011年10月16日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/

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2011年10月14日

【人生】「老いる覚悟」森村誠一さん

P23
「覚悟」とは、決意の凝縮である。
人生という長い道程の中で、考え、選択してきた心構えの凝縮なのである。

(中略)

自由に覚悟をする。
あるいは覚悟をしない。
「覚悟をしない」という選択も、覚悟の一つである。

(中略)

覚悟には三つの種類がある。

まず第一に、平穏無事で何も不満がない、弛んだ生活をしている。
そういう平常時の覚悟である。

次に、今までの人生が限定を受けた時の覚悟。

今まで築いてきた地位を追われ失脚した場合、会社が倒産して失業した場合、強力なライバル会社が台頭してきて事業が立ち行かなくなった場合、技術革新が起きて自分の培ってきた技術が役に立たなくなった場合などである。

(中略)

そして最後のひとつは近い将来起こるであろう出来事に対する覚悟。

検診を受けてがんが発見され、余命三ヶ月を宣告された。
そうなれば、その三ヶ月をどう生きようかという覚悟ができる。

臨終に向かう覚悟である。

自分が死んだときに周りの人間が困らないように遺書を書いたり、身辺の整理も重要である。
家族や親戚、友人関係にも悟られぬように整理をしていく。
これは難しくないようで強い意志の力を求められる覚悟だと思う。

なぜ、私たちの多くは、「『覚悟をしない』覚悟」をしてしまうのか。
主因の一つは、人生において大事にすべきことを決めていないからではないか。
「これは大事にするが、これ以外は大事にしない(捨てる、諦める)」と決心していないがゆえに、全てのことが大事に思える、失うべきではないと感じる。
だから、「『覚悟をしない』覚悟」をしてしまうのではないか。

しかし、これは誤りだ。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」だ。
人は、多くのものを諦めて初めて、残った少しのものを大事にできる。


P30
江戸期から昭和二十年(1945年)の敗戦の少し前あたりまで、時代の変化といっても、過去の延長線上にあった。
現在は、延長線上にない。
そんな時代は、今だけなのである。

「今どきの若い奴らは」と、よくいわれるが、今の老人たちが若いときもいわれていた。
石原慎太郎が二十三歳で『太陽の季節』を書いたときにもいわれた。
それが今、七十八歳の老人になっている。

わたしたちがいわれた「若い奴ら」と、今の老人たちがいう「若い奴ら」は、全然異質なものになっている。
『太陽の季節』の「若い奴ら」は過去の延長線上にあったが、今の「若い奴ら」は過去の延長線上にいない。

私も「若い奴らは」という言葉を使う年になったが(笑)、この言葉を使う下心に「自分の方が正しい」という思いがある。
ただ、この思いは下衆であり、そもそも正しくない。
なぜなら、「若い奴ら」の行動を、意思決定プロセスを理解せず否定しているからだ。
森村さんのお考えに従えば、「若くない奴ら」が彼らの意思決定プロセスを理解できないのは、「過去」、即ち、「自分の経験」の延長線で彼らの心情(変化)を推し量るからだ。
私を含め「若くない奴ら」は、現在が必ずしも過去のてん末と限らないのを自覚、再認識する必要がある。


P31
人生とは、生まれた瞬間から死へ向かって歩き始める道程であり、その道程を表す日めくりカレンダーのようなものである。

日めくりの残り枚数(寿命)は個人差があり、不平等である。
残り枚数がはっきりわかってしまっては、まさに死刑執行を待つ身になってしまう。
残り枚数がわからないところが人生の妙味である。

亡き母色川武大先生が言うように、人は病気や事故ではなく寿命で生涯を閉じる
人の不平等の最たるは寿命だ。
このことを思えば、能力、美貌、出所など、それ以外のことは知れている。
私たちは、不平等を嘆かず、予想外の日めくりが出るのではないかと、妙味に感じるのが賢明だ。


P39
平均寿命が八十歳を超える今、高齢者=尊敬という状況が、いつの間にか、崩れてきた。
現代の劇的な変化によって、社会全体の価値観が変わってきたのである。

現在の社会構造の中で、一番求められるのは便利性だろう。

少し前までは、携帯電話やパソコンなどなくても、何の不便も覚えなかった。
しかし一旦、便利性を知ってしまうと、もう手放せなくなってしまう。

(中略)

誰もが、便利性の奴隷、つまり、「便奴(べんど)」になっている。
人間がみんな便奴になってくると、高齢者はより道具に頼るようになり、さらに便奴になっていく。

最近は社会全体が非常に過保護的になっている。
特に日本は、保護されて当然という考えの高齢者が増えているようにも思える。
これも、便奴化を加速する。

駅へ行くと、「左のトイレが女子トイレ、右のトイレが男子トイレ」と案内板だけでなく、音声でも案内をしている。
そんなこと、外国ではない。

(中略)

こうなると、自分でやれることや、確認すべきことまでも他人や機械に任せてしまう。
バリアフリーというのは、本当に身動きできない老人や、あるいは体の不自由な人のためにある。

バリアフリーの精神の過多は、ややもすると、老人を尊敬される対象から、尊敬されない存在にしてしまう。
何でもかんでも、自分でできることさえも、バリアフリーや周りの他人に頼ってしまい、それがあたり前という顔をしていたら、どう思われるであろう。

あえて悪くいえば、バリアフリー根性かもしれない。
バリアフリー根性に胡坐をかいていると、老いる覚悟も崩れ去る。
老人は尊敬されなくなってしまうのである。

「便奴」なのは、老人に限らない。
私たち中年も「便奴」であり、若い人もそうだ。
日本人は悉く「便奴」だ。

なぜ、日本人は「便奴」に成り下がったのか。
一言で言えば、馬鹿になったからだ。
「バカとハサミは使いよう」という言葉があるが、私たち日本人は馬鹿になったのだ。
便利なモノで端折れたリソースを自己成長へ回さず(投資せず)、そっくり享楽事に費やしてしまった。

馬鹿者ほど、自分の馬鹿さに無知だ。
昨今の過保護を希求、当然視する風潮は、自分の馬鹿さに気づかず、自己利益の担保を他者に責任転嫁している表れだ。
そんな人間が尊敬されないのは、当然だ。
私たちは、便利なモノを自堕落の麻薬と認識する必要がある。


P45
昔は冠婚葬祭などで、おじいちゃん、おばあちゃんに訊かないと、わからないことがたくさんあった。
だが、今の高齢者は、老いの知恵がなくなった。
「そんなこと、わたしもわかんないわよ」、と平気でいう老人も多い。

それどころか、現代では、おじいちゃん、おばあちゃんを知恵袋として頼るよりも、インターネットを気軽に活用する風潮がある。
ネット社会では、どんな情報も、インターネットの中で検索できると思われがちである。

しかし、尊敬される高齢者は、インターネットに載っていない情報を持っている。
人生で培ってきた千軍万馬の経験や叡智がある。
機械などでは手に入らない貴重な情報を高齢者の知恵が埋めてくれる。
高齢者がいるだけで、何となく社会や家庭が安定する。
そういう老人にならなければいけない。

「うちはおじいちゃんは物知りで、しっかりしているよ」、「うちのおばあちゃんの作る糠漬けは最高においしい」といわれるような存在になればいい。

家族や社会から必要とされる老人になる覚悟が大切なのである。

「そんなこと、わたしもわかんないわよ」と平気で言うのも、老人に限らない。
私たち中年も、若い人もそうだ。
日本人の殆どがそうだ。

なぜ、こうなったのか。

一つは、「恥の文化」の衰退が関与しているのではないか。
日本の美徳であった「恥の文化」は、経済の減退と格差拡大の明確化から、大きく衰退した。
昨今、「オバカタレント」なる芸能人まで出現した。
他者から「あの人、こんなことも知らないんだ」と言われることなど、もはや恥ではない。

もう一つは、知的好奇心や成長意欲の減退が関与しているのではないか。
昨今、女性を主に「いかに外見(そとみ)を良く見せるか」ばかりが注目され、「いかに内面を充実させるか」が等閑にされている。
主因の一つは、世の中の不確実性が増え、私たちが、費用対効果が読み難い後者よりも、刹那であれ費用対効果が読み易い前者が選好するようになったことにある。
かつて、私たち日本人は「一億総中流」を志向したが、今は「一億総刹那」を志向している。


P55
定年後、第二の人生のスタートラインに立って、「これから自由にしなさい」といわれたとき、そこには、「何をしてもいい自由」と、「何もしなくてもいい自由」がある。

「何をしてもいい自由」とは、自分の夢を実現したり、新しいことに挑戦することである。
会社、組織での人生のしがらみを捨てて、未知の分野に進む覚悟である。

(中略)

「何もしなくてもいい自由」とは「何をしてもいい自由」とちょうど正反対で、社会とかかわりを持たず、一日中ひとりでテレビを見て暮らすような、本当に何もしないことである。
夢を叶えるでもなく、新しいことにも挑戦しない。
日々あるがままに過ごすことをいう。

どっちを選んでもいいよといわれると、「何もしなくてもいい自由」を選ぶ人が多い。
会社、組織を退職した人、特に一流会社の、いい地位で定年を迎えた人は、「何もしなくてもいい自由」を選びがちである。

誰も計画を立てたり、命令をしてくれる人間がいなくなり、ひとりでは何をしていいのかわからなくなってしまうのである。

(中略)

組織を辞めれば孤独になるということが、現実的にわかっていなかったのである。
何十年も会社という組織の中で一生懸命働いてきたのだから無理もない。

それまでは、会社のポリシーの奴隷であった。
会社に忠誠を誓い、ポリシーに縛られている人を、わたしは「社奴(しゃど)」とよんでいる。

しかし「社奴」から放たれた人のほとんどが途方に暮れる。
何をしていいのかわからない、どこに出かけていくのかも決められない。

長年放っておいたので、家庭にも居場所がない。

リタイアして年金生活をおくっている私の仲間も、やはり、何もすることがない人のほうが、多い。
しかし、家にはいられないので、仕方なく、ひとりで街に出て時間を潰している。

本当に何もすることが見つけられない人は、電車の環状線に乗っている。
環状線に一日中乗り続けて、本を読んでいる。

自分ひとりでは何もできずに、仕方なしに「何もしなくていい自由」を選ばざるを得ない悲劇。
「タイムイズマネー」を地でいっていたエリート社員が、時間を潰すために、一日中電車に乗っているなどと、本人たちも想像できなかったであろう。

「何をしてもいい自由」よりも「何もしなくてもいい自由」を選ぶのも、定年後の老人に限らない。
私たち中年も、若い人もそうだ。
日本人の殆どがそうだ。

なぜ、私たちは「何もしなくてもいい自由」を選好するのか。
主因の一つは、憤怒の諦観化ではないか。
かつて、私たちは、世の矛盾や問題に少なからず憤怒を覚えた。
そして、その憤怒が「何をしてもいい自由」の選択を強く迫り、新しい行動を呼び覚ました。
しかし、今や、私たちは、世の矛盾や問題に「所詮そんなもので、自分にはどうしようもない」と諦観を覚えるようになった。
そして、その諦観こそが、私たちに「何もしなくてもいい自由」の選好を奨励しているのではないか。


P83
田舎の町は隅々まで密着している。
近所の人が覗き込んで、「おじいちゃん、元気?」と声をかけたり、「これうちの鶏が産んだ卵だからあげるね」などと隣近所で気を遣う。
それがときにはうっとうしいと感じることもあるであろう。
田舎暮らしでは金銭とかかわりなく、毎日しなければならない仕事がある。
同じ仲間と毎日会える。

都会暮らしの人から見ると何と地味な生活だろうと思うが、田舎の生活とコミュニティは老人を孤独にさせない底力を持っている。

反対に都会のマンションは、どの部屋にどんな人が居るのかわからない。
人との交流がないというより、相互不干渉主義という名のもとの、人と人とを隔絶する力を持っている。

私も約二年前から所謂都会のマンションに住んでおり、「相互不干渉主義という名のもとの、人と人を隔絶する力」を日々痛感している。
この力は、私たちが隣人を愛せない囚人のジレンマも増幅するため、老若男女問わず厄介だ。


P85
若いときの欲望は、十代や二十代ではきれいな女性にもてたいとか、いい車に乗りたい、早く結婚したいなど、比較的に単純で直截的なものが多い。
簡単にいえば、物欲と肉欲である。

三十代、四十代では、会社で出世したい、起業して社長になり金持ちになりたい、など出世欲とか金銭欲が中心になってくる。

そして壮年になると、将来がある程度見えている。
勝ち組は世間で賞賛されたい、権力を手に入れたいと思い、その他は平凡な暮らしがいつまでも続くことを第一に考える。

ごく一部の欲望むきだしの老人を除き、老いてきたときの欲望は、枯れてくる。

枯れるということは人間の夢や希望、新しい可能性も枯れてくることを意味するのである。

老いても人間枯れたらおしまいだという執念が必要になる。
自分は絶対枯れないという覚悟を持たなくてはならない。

人間は歳をかさねても、欲望を持ち続ければ、艶がなくならない。

生涯現役で生きていくために、欲望はビタミンと同じ必要なものなのである。

「枯れること」は「絶望すること」だ。
「枯れること」を抑止するには、「大地の子」の陸一心の如くいかなる状況でも「絶望しないこと」だ。

「絶望しないこと」は「希望を持つこと」と同義ではない。
希望、夢、可能性といった、生きることのプラスの私的インセンティブ(誘引)が絶えてもなお、他に何か自分が生きるべき一片の理由を見出すこと。
これが「絶望しないこと」だ。
本当の「自分探し」は、自分が生きる一片の理由を見出すことかもしれない。



老いる覚悟 (ベスト新書)
森村 誠一
ベストセラーズ
2011-05-10




kimio_memo at 07:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 書籍 

2011年10月11日

【洋画】「世界侵略:ロサンゼルス決戦」(2011)

〔ひと言感想〕
「エイリアン」と「プレデター」とその他多数を3で割った映画でしたが(笑)、「リスク」とは異なりヘッジ&完全予防できない「不確実性」の存在を再認識しました。


世界侵略:ロサンゼルス決戦 [DVD]
出演:アーロン・エッカート、ミシェル・ロドリゲス
監督:ジョナサン・リーベスマン 
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2012-08-22




kimio_memo at 07:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 映画 

2011年10月10日

【科学ライブショー】「将棋と直感」糸谷哲郎さん

shikiki_ito
将棋のプロ棋士とアマチュアとの一番の差異は直感だ。
同一局面を見た時、プロ棋士はアマチュアより読む手の数(種類/選択肢)が少ない。
大体、ニ、三手で、それ以外の手は「これは無い」と除外している。
これを実現する働き、それが直感だ。

直感は、将棋やチェスといった頭脳ゲームをやる時だけでなく、日常的に使われている。
例えば、数学の問題を解く時や、買い物をして金額を計算する時がそうで、これらの時に、私たちはどの解法を使うか意識的に考えたりしない。
たしかに、初めてやる時や、慣れない内は、考えるが、慣れてしまえば、考え(る必要が)なくなる。
これが直感だ。

このように、直感は経験(値)に依存する。
直感力を高めるには、反復が最も基本かつ有効だ。

直感は、頭脳だけの働きではない。
体とも密接に結びついている。
自転車から他の乗り物に乗り換えてふと戸惑うのは、そのためだ。

ご存知の通り、コンピュータ将棋は年々強くなっている。
昨年は、「あから」が清水市代女流六段を負かした。
コンピュータ将棋との対局が難しくなっているのは、思考プロセスが異なるからだ。
プロ棋士は、まず指し手を直感でニ、三手に絞り込み、それらだけ深読みし、決定する。
対して、コンピュータ将棋は、可能な指し手は全て読み、各々の有効性を評価関数で評価し、決定する。
つまり、全幅検索だ。
将棋は、囲碁や麻雀と比べると、可能な指し手が少なく、全幅検索が容易だ。
だから、コンピュータ将棋は、可能な指し手がより少ない(限定的になる)終盤では滅法強く、「詰むや詰まざるや」の局面では既にトッププロを上回っている。

今後、コンピュータ将棋はもっと強くなる。
なぜなら、ハードの性能が向上することに加え、サンプルデータをより多く取り入れ、評価関数の精度も向上するに違いないからだ。
一局の勝負(⇔番勝負)なら、10年以内にトッププロも負かすだろう。

プロ棋士がコンピュータ将棋に勝つには、直感を活かす戦い方が有効と考える。
具体的には、新規の序盤戦術を案出し続け、それを採用することだ。
なぜなら、コンピュータ将棋の実力は、可能な指し手の多い序盤では、まだプロ棋士を上回っていないからだ。
昔の珍奇な序盤戦術を採用するのも手かもしれない。

私は、これまで直感を、「問題の真因や最善の解決策を迅速かつ正確に思いつくこと」と考えていた。
例えば、将棋の場合だと「最善手がすぐ思い浮かぶこと」で、企業経営の場合だと「事業不振のボトルネックがすぐピンと来ること」だといった具合だ。
そして、「直感力が優れている」というのは、「最善手を短時間で着想する能力を有していること」、「事業不振のボトルネックを短時間で洞察する能力を有していること」と考えていた。
しかし、今回、2009年のNHK杯で準優勝の偉業を果たされて以来羽生善治さん以上に注目している(笑)糸谷哲郎五段のお話を聞き、この考えが誤解であること、シビア過ぎることに気づかされた。
直感は、「最善手」や「ボトルネック」とまではいかなくても、「有効手」や「主因」で足りており、直感力は、「有効手」や「主因」を短時間かつ無意識的に着想、洞察する能力で良いようだ。

直感や直感力についてこれまで先のように考えていた私は、いかにしたら「最善手」や「ボトルネック」を短時間かつ無意識的に着想、洞察できる能力が高められるか、不躾ながら糸谷さんに個別質問申し上げた。
糸谷さんは、以下の旨回答下さった。
私は、成る程と感じると共に、多々考えさせられた。
私は、この場を借りて、改めて糸谷さんに感謝したい。(礼)

〔1〕「『有効手』や『主因』を短時間かつ無意識的に着想、洞察できる能力」の意味での直感力を高めたいなら、やはり、繰り返しやること、反復することが最も有効だ。

〔2〕ゆえに、プロ棋士でも、直感力は経験値の高いベテランの方が優れている。直感力が優れたベテランが必ずしも勝利に恵まれないのは、「読み」の問題だ。直感力は、将棋の実力関数の一変数に過ぎない。

〔3〕とはいえ、経験値を高めれば、直感力と同様、「『最善手』や『ボトルネック』を短時間かつ無意識的に着想、洞察できる能力」も有効に高められるかというと、必ずしもそうとは言えない。たしかに、同様の経験値を持つ人間の間でも、そうした能力には厳然たる差が有り、しかも、差が生じる理由は不明だ。所謂「才能」かもしれないが、そもそも人間は同じ経験、生活をしても「好き嫌い」、つまり、「趣味趣向」に差が生じてくるものであり、かつ、それが直感に大きく影響するからして、本当に不明だ。

〔4〕ゆえに、いかにしたら、「『最善手』や『ボトルネック』を短時間かつ無意識的に着想、洞察できる能力」が有効に高められるかは、何とも言えない(明確には回答できかねる)。


<余談>
哲学とは異なり、将棋は相対化できない。
なので、生業の将棋と専攻学問の哲学は、別個切り離して考えている。



★2011年10月8日科学技術館にて催行
※上記内容は全て意訳
http://universe.chimons.org/jsf/
https://twitter.com/kimiohori/status/123190321961111552



kimio_memo at 08:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0) イベント 

2011年10月07日

【特別講義】「ブログ起業論」松山真之助さん

matsuyama
人は、知らず知らずの内に、自分を何らかの「枠」や「殻」に閉じ込めている。
そこから「脱却する」、「shiftする」のは、非常に有意義だ。

(中略)

自分の物理的、精神的立ち位置を「こっち側」から「あっち側」へshiftすること。
これが「『所属』shift」だ

たとえば、タモリは、かつてこう言った。
「テレビは見るものではなく、出るものだ」と。
たしかに、人間は情報を受信する一方だと腐ってしまう。
情報を「受信する側」より「発信する側」の方が、断然面白いものが見える。
これはテレビ(メディア)だけでなく講演も同様だ。
「講演する側」にshiftできなければ、「主催する側」にshiftすればいい。
「何かお手伝いすることはありませんか?」とアプローチすれば、「主催する側」にはいくらでもshiftできる。
「受講する側」より「主催する側」の方が断然面白いし、得られるものも多い。

また、ガンジーは、ピストルで撃たれ瀕死の折、こう言った。
「私はあなたを許す、私が自由になるために」と。
たしかに、他者をかくも「許す」には自分を他者より一段高いレベルにもっていく必要があり、容易ではない。
しかし、実現できれば、感情のコントロールがとても上手く、有効にできる。

たしかに、人間には、自分の物理的、精神的立ち位置を「こっち側(≒この程度の人間)」と規定してしまう、そして、「あっち側(≒あのような素晴らしい人間)」を自分とは遠く離れた無関係な位置と確定してしまう習性がある。
この習性は多分に、マズローが言う人間の根源欲求の一つである「所属欲求」に基づくものであり、抗うのは容易でない。
では、タモリさんやガンジーさんは、いかに抗い、「『所属』shift」を果たしたのか。

タモリさんは、偶然人づてに「面白いヤツだ!」と赤塚不二夫さんに見出され、赤塚さんのマンションに居候し、テレビに出るようになった。
そこで、タモリさんは、テレビに出る面白さ、掛け替えの無さを思い知った、味をしめたのではないか。
ガンジーさんも、同様に、偶然何かで他者を「許す」ことを経験し、そこで得られる精神の自由の有り難さ、掛け替えの無さを思い知った、味をしめたのではないか。
恋愛はよく「事故」や「出会い頭」と表され、その偶然性を積極的、能動的に評価、受容した人だけが経験できる人生の妙味だが、「『所属』shift」も同様ではないか。



★2011年10月6日明治大学1085教室にて催行
※上記内容はいずれも意訳
http://blog.canpan.info/meiji_venture/archive/201
https://twitter.com/kimiohori/status/122097133343092736
https://twitter.com/kimiohori/status/122052807518990336
https://twitter.com/nobukume/status/122076850041266176

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kimio_memo at 07:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 講演/セミナー 

2011年10月03日

【邦画】「大鹿村騒動記」(2011)

〔ひと言感想〕
内容は「長野県版寅さん」で、原田芳雄さんら名俳優が多数名演下さり、期待以上に満喫しました。
人間の生来の弱さ、ダメさ、優しさを改めて気づかされ、大鹿村に住みたくなりました。


大鹿村騒動記【DVD】
出演:原田芳雄、大楠道代、岸部一徳、小野武彦、三國連太郎
監督:阪本順治 
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)
2012-01-21




kimio_memo at 06:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 映画 

2011年10月02日

【観戦記】「第70期名人戦A級順位戦〔第12局の6▲郷田真隆九段△屋敷伸之九段〕郷田、白星先行」甘竹潤ニさん

屋敷(伸之九段)の強靭な粘りに、「なるほどこうやって勝負に持ち込んでいくものか」と感心していた控室だったが、「先手玉が遠すぎます」と郷田(真隆九段)勝ちの結論を出した。

日付が変わって、午前0時51分。
屋敷は最後の2分まで使って考えた末に投了した。

終局直後、しばらくの沈黙の後、こんなやりとりがあった。

郷田「(126手目の)△4四玉で△3四玉は?」

屋敷「(ニッコリしながら)詰みですよ」

郷田「あっ」(苦笑)

△3四玉は▲4六桂以下の簡単な詰み。
郷田は盤側の記者でもわかったこの詰みをうっかりしていたのだ。
勝敗に直接影響はなかったかもしれないが、深夜決着になることが多い順位戦は、時としてこんな空白の時間を生む。

トッププロ棋士である郷田真隆九段をして、半日を超える長時間対局(※順位戦の持ち時間は対局者当り6時間)の終局間際では読みに「うっかり」があった。
しかし、郷田さんは、「うっかり」はしたものの、その中に潜んでいた「地雷」は踏まずに済み、勝利を収めた。

凡人かつ自他共に認める「うっかりさん」(笑)の私が言うのはおこがましい限りだが、私たち一個人が「うっかり」を完全に無くすのは不可能だ。
なぜなら、人間の思考は、コンピュータの如く網羅的ではないからだ。
だから、もちろん、「うっかり」を最小化する努力を課したり、仕組みを設けることは、大事かつ励むべきだ。
しかし、もっと大事かつ会得すべきは、郷田さんの如く「うっかりの地雷」を踏まないことだ。

郷田さんが「うっかりの地雷」を踏まなかった、踏まずに済んだのは、多分に「地雷」の臭いを嗅ぎ付けたからだ。
依然、自分と他者の対局をコンピュータ無しに総括、知恵(⇔知識)化し、A級に在位する郷田さんの「地雷」に対する嗅覚は、トッププロ棋士の中でも格別に違いない。

「地雷」の嗅覚は、「経験の知恵化」と「現在の調子」の程度に比例する。
後者は詰まる所「神のみぞ知る」ものだが、前者は「自分のみぞ知る」(笑)ものだ。
「地雷」の嗅覚は、努力対象かつ自己責任だ。



★2011年10月2日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/



kimio_memo at 18:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 新聞将棋欄 

2011年10月01日

【私小説】「いねむり先生」伊集院静さん

P196
ポスターの中で笑っていたのは、二年前に亡くなったボクの妻だった。

(中略)

「サブロー君、行きましょう」

「は、はい」

ボクは返答し、先生のあとを追うように歩き出した

(中略)

この二年、つとめて忘れようとしてきて、ようやく平静になったと思い込んでいたものが、突然、目の前にあらわれ、しかも先生と一緒の時に、そうなったことがよけいにボクの感情を揺さぶった。

(中略)

「サブロー君、人は病気や事故で亡くなるんじゃないそうです人は寿命で亡くなるそうです」

「・・・」

ボクは先生の言葉の意味がよくわからなかった。
それっきり先生は何も言わなかった。

「先生」とは、どのようなことができる人のことか。
すぐ思い浮かぶのは、特定の知識や方法論を教示できることだろう。
しかし、欠かせないのは、一歩先から適宜、物事の道理と人生の不条理を教示できることだ。

たしかに、一歩先ゆえ、教示直後は、100%未満の理解しか得られない。
だが、一歩先かつ適宜ゆえ、後年、120%の理解と共感が得られる。
そんな風に見込んだ他者へ、徒労を怖れず長い目で根気強く、物事の道理や人生の不条理を教示できること。
「先生」とは、これができる人のことだ。

「人が亡くなるのは、病気や事故ではなく、寿命である」。
これは、生前母もしばしば言っていたが、正に物事の道理であり、また、人生の不条理だ。
サブローこと伊集院静さんがこれを私たちに教示する、教示できるのは、自ら、いねむり先生こと色川武大先生に教示され、後年120%の理解を果たした「先生」だからだ。

「先生」は、生まれ出るものではない。
「先生」は、「先生」に見込まれ、創り出されるものだ。



いねむり先生
伊集院 静
集英社
2011-04-05


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kimio_memo at 06:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 書籍