2011年09月

2011年09月27日

【人生】「私が世界No.1セールスマンになるためにやった50のこと」甲斐輝彦さん

P137
では、助言を受けて欠点を直さなければどうなるか。
叱った側は「なめられている」と感じ、対応を強くしようと考える。
やがて言ってもムダだと考えてその相手との関係を絶つ。

指摘してくれた人の言うことを無視することは、「指摘してくれた人よりも自分のほうが賢いと思っている」と宣言しているようなものだ。

そんな人間の相手をするのは誰にとっても不快だろう。

だから、そんなプライドは捨てたほうがいい。

指摘を受けたら、文句を言わずに実践してみる。
その結果、物事が好転すれば感謝の意を表し、うまくいかなければ何も言わない。

甲斐さんのお考えはご尤もであり、言い得て妙だ。
たしかに、他者から受けた欠点の指摘を無視するのは、指摘者を愚者と侮辱するのと同義だ。

人間は、そもそも利己的な生き物だ。
なぜ、そんな利己的な生き物である人間が、わざわざコストをかけ、また、無視されるリスクを賭してまで他者に欠点を指摘をするのか。
一番の理由は、”その”他者が好きで、放っておけないから、だ。
二番目の理由は、逸失するには惜しい可能性が”その”他者から感じられるから、だ。
三番目の理由は、”その”他者の成長、成功、幸福が自分の成長、成功、幸福に予見できるから、だ。

にもかかわらず、なぜ、人間は、他者のかくなる指摘を無視するのか。
一番の理由は、”その”他者が好きでない、信じられないから、だ。
二番目の理由は、そもそも指摘された箇所に問題を認識していないから、だ。
三番目の理由は、指摘された箇所に問題を認識していても、認識できても、他者から指摘されるほど、修正しなければいけないほどには認識していない、認識できないから、だ。

なぜ、人間は、指摘された箇所に問題を認識できても、他者から指摘されるほど、修正しなければいけないほどには認識できないのか。
一番の理由は、「(これまで生きてきた)自分はそれほど捨てたモノではない」と思いたいから、だ。
二番目の理由は、指摘の内容や意義が得心できないから、だ。

なぜ、人間は、他者の指摘の内容や意義が得心できないのか。
一番の理由は、人生のフェーズや知見のレベルがかい離しているから、だ。
二番目の理由は、それらをすぐさま正確に理解しようとするから、だ。

ビールが本当に美味く感じるのは、寅さんが心底面白く感じるのは、社会の不条理を痛感した後のことだ。
学問は、現時点で内容や意義が正確に理解できていない、できないから励むのであって、内容や意義が予め正確に理解できている、すぐさま正確に理解できるなら、そもそも励む必要が無い。
内容や意義が得心できないことを理由に他者の指摘を無視するのは、指摘の何たるかを誤解した人生の機会損失だ。







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2011年09月26日

【将棋】「将棋世界2011年10月号/リレー自戦記」村山慈明五段

P91
終局後は担当記者と軽く飲みに行き、その日のうちに帰宅。
次の日は羽生さんとの研究会が控えていた。
大一番(※第52期王位戦挑戦者決定リーグ白組プレーオフ/VS羽生善治ニ冠)に負けた翌日に「よく行くね」と何人かの関係者に驚かれたが、そもそも行かないという発想がない。
羽生さんと将棋を指すのはいつでも楽しい。
4人総当りの研究会なのだが、この日は3連勝することができた。

なぜ、関係者は、大一番である本局(※第52期王位戦挑戦者決定リーグ白組プレーオフ/VS羽生善治ニ冠)に負けた村山慈明五段が、翌日に予定されていた研究会へ行く意向を「依然持ち続けている」、「断念していない」ことに驚いたのか。

一番考えられる理由というと、「大一番で負けて意気消沈しているから」であろう。
次に考えられる理由というと、「行こうとしている研究会が、大一番で負けた相手の羽生善治さんが主催する羽生研だから」であろう。
この次に考えられる理由というと、「研究会に参加しているのに大一番で負けてしまい、研究会へ行く張り合いが無くなったから」といったところか。

しかし、これらは、私たち凡人特有の「下衆の勘ぐり」だ。
村山さんが、「そもそも」という強調の意の副詞を付してこれらを根本から否定なさったのは、そういうことだ。
村山さんは、そもそも、対戦者の羽生さんと同様、棋理の究明と棋力の向上を一番の目標および動機として将棋を指しておられるに違いない。
そして、全ての対局を「掛け替えの無い大事な対局」、即ち「大一番」と認識し、もはや「大一番」という感覚を失っておられるに違いない。

「下衆の勘ぐり」は、自らの下衆さを強化、周知させること、ならびに、自らの成長を停止、抑止させることと同義で、「自己崩壊の誘い水」だ。
「下衆の勘ぐり」は、忌避、断絶するのが賢明だ。



将棋世界 2011年 10月号 [雑誌]
毎日コミュニケーションズ
2011-09-03




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2011年09月24日

【人物】「団鬼六論」堀江珠喜さん

P213
今回初めて、活躍中の作家についてまとめることになり、当然ながら前述の恩師の言葉が頭に浮かぶとともに、もうひとりの恩師(で、こちらは御存命の)野口武彦先生が、『三島由紀夫の世界』(1968年12月)を上梓し、三島の機嫌を損ねた話も思い出した。

(中略)

本書が、実は鬼六先生へあてた筆者の長い長いラブレターだと思っていただければ(思えるわけないか?)嬉しい。

(中略)

偉大な者には「記録係」が必要なのである
ただし、我らが鬼六先生は「初歩的だよ」でも「No Sir(いや君)」でもなく、「アホか!」を連発なさるのだが、それがまた愛すべきキャラクターを形成している。

偉大者の記録が必要なのは、歴史の編纂が必要なのと同義だ
しかし、偉大者を記録するのは、通例、「対象者より偉大でない者」、つまり、「劣等者」が行なうのが常だ。
恐縮ながら、堀江珠喜さんが本書で団鬼六先生の半生を記録なさったのも、そういうことだ。

なぜ、劣等者は、自分との間に厳然たる劣等性を痛感してもなお、偉大者の記録を欲するのか。
一番目の理由は、堀江さん自身も吐露なさっているが、対象者を唯一無二の偉大者としてだけでなく唯一無二の人として、この上ない敬愛、憧憬を知覚しているからではないか。。
二番目の理由は、唯一無二の偉大者に出会い、同時代を生きられたことに、この上ない有り難さ、謝意を知覚しているからではないか。
三番目の理由は、唯一無二の偉大者の「歴史の証人」になることで、自分の劣等性が癒され、劣等者の自分の存在(意義)が未来永劫社会的に肯定される不遜な期待を知覚しているからではないか。
だから、不肖の私も、羽生善治さんの言動と所感を、労を惜しまずブログに記録しているのではないか。(笑)



団鬼六論 (平凡社新書)
堀江 珠喜
平凡社
2004-01-21




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2011年09月23日

【NHK】「スタジオパークからこんにちは」樋口可南子さん

私は、本当に(井上)真央ちゃんが、静かに頑張っている姿、もう本当に朝ドラの主役というのは、過酷なスケジュールで、大体何回か辛い時期、体力的にですね、体力的に辛い時期って必ず何回か来るんですけど、「ちょっと、今日、眠そうかな?」っていう時は何回かあったけど、「この人は、本当に大丈夫なのかな?」っていう時は一度も無かったです。

(井上真央さんは)先頭っていう感じじゃないんですよ。
みんなの真ん中に、真ん中に居るから私たちはもう自由に周りを(大きく回れる)、先頭だとなかなか回れる距離って限られるんだけど、真ん中に居てくれるので、もう自由自在に360度回れる。
それはなかなか、ホント引っ張ろうとして先頭に立つか、ちょっと遅れちゃうか、なりがちなんだけど、真ん中に立てるという人という、静かに居られる人というのは、よっぽど芯の通っている人、うーん、だから、自分をすごく持っている人、しっかりと持っている人なんじゃないですかね。

えー、真央ちゃん。
一年間、本当にお疲れさまでした。
あなたは、本当に、スタッフの、スタッフ、キャストの太陽でした。

さすが、周りのあらゆるヒト&モノにいつも興味津々&敏感な樋口可南子さん、仰ることが成る程だ。
井上真央さんは、主役の「太陽の”陽子”」を演じただけでなく、撮影現場の太陽であられたと。
私は、これまで「北風型リーダーシップ」の対比でしか「太陽型リーダーシップ」を認識していなかったが、それは誤りだった。
人は各々掛け替えの無い心身と能力の持ち主であり、絶えず真ん中で皆を大きく温かく回遊させることこそ、太陽型リーダーシップの本質であり、また、最も全体最適的かつ自然なリーダーシップなのかもしれない。



★2011年9月5日(ゲスト:井上真央さん)放映分
http://www.nhk.or.jp/park/guestpage/guest20110905.html

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2011年09月22日

【フジ】「ボクらの時代」六角精児さん

【松坂桃李さん】
どうやって、そんな、(3回も)結婚まで持ち込めるんですか?(笑)

【六角精児さん】
女性は、「(自分と)結婚して欲しい」と思う人が結構居るんですよね。
で、男性は、「まだまだ自分のことはわからない」と思うから、「したくない」というか、「まだまだ遠いな」と思っていることが多いというか、オレもそう思ってたんですけど、途中から女性から「結婚して欲しい」って言われた時に、「よしゃ、わかった!」っていうことがいくつかあったんですよ。
それで、「じゃあ、結婚しよう!」って。(笑)

【向井理さん】
でも、女性にそういう対象になると見られているっていうことは、すごいことですよね、やっぱり。

【六角精児さん】
自分から言うのもナンだけど、(自分が)頼りないからじゃないかなぁ。
世の中には「ダメな人が好き」な人って居るんですよ。
でも、「好きだ!」というサインは出してますけどね。
あとはまあ、「君の話は全部聞く」と。
「私はあなたの味方だよ」と。(笑)

六角精児さんが仰った「世の中にはダメな人が好きな人が居る」とのお考えは、真実かつ真理だ。
では、なぜ、人は、敢えて、ダメな人を好きになるのか。(笑)
自分にも一回の離婚経験と心当たりがあり(笑)、誤解を恐れず、思いつくまま挙げてみたい。

一番目は、同情は愛情と紙一重かつ誤解し易いから、ではないか。
だから、メロドラマのヒロインは、かつてこぞって不治の病を患っていたのではないか。(笑)

二番目は、ダメな人だと、微かな良い所が、とりわけ光り輝いて見えるから、ではないか。
だから、ヤクザな男と付き合った女性は、カタギの男性では物足りなく感じるのではないか。(笑)

三番目は、相手がダメであれば、自分の知れている良さでも通用しそう、肯定評価してもらえそう、並びに、自分のアイデンティティ/存在意義が確認できそう、に思えるから、ではないか。
四番目は、相手がダメであれば、自分のダメさがマスキングされそう(大っぴらにならないで済みそう)に思えるから、ではないか。
五番目は、相手がダメであれば、自分が優位な立場に立てそうに思えるから、ではないか。
だから、男性は、自分より不細工、低身長、低学歴、低キャリア、低収入の女性と結婚したがるのではないか。
だから、女性は、自分より家事が不得手な、嫌いな男性と結婚したがるのではないか。

六番目は、期待して裏切られる心配が少ないから、ではないか。
七番目は、自分を受容してくれる人の再来が見込めない、期待できないから、ではないか。
だから、女性は、結婚の条件から「三高」を除外するようになったのではないか。



★2011年9月18日放映分
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/jidai/
http://bit.ly/jJAkxk

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2011年09月19日

【野球】「野村克也解体新書」江本孟紀さん

P107
守備位置によって野球の見方は変わる。
それは引退後、監督やコーチに向いているかどうかというところにまで影響を及ぼす。

(中略)

やっぱり、いちばん向いているのがキャッチャーである。

(中略)

配球とは、ピッチャーの調子や得意な球だけで決めるのではなく、相手の采配や試合の流れなど、すべての状況を考えて決めるもの。

例えば、バントのサインが出ていると察する。
バントをさせたほうがいいと思えばまっすぐを要求する。
バントをさせてはいけないと判断した場合、右バッターが一塁側に転がそうとしているならインコースに投げさせる。
三塁側に転がそうとしているならアウトコースを要求する。

このように相手の作戦を読みながら、状況を考えて試合を組み立てるのがキャッチャーなのだ。

この”読む”という仕事だが、それはすべて猜疑心で行なうものだ。
バッターの微妙な動きから「次はバントだ」と勘ぐる。
とにかく疑うことがキャッチャーの仕事。

ようするにキャッチャーは、「ここに投げれば打たれないだろう」というマイナスの発想で投球を組み立てる。
このマイナス思考が監督と同じなのだ。
だからキャッチャーは監督に向いているのだ。

それに対して、ピッチャーは「ここに投げたら打たれない」と思って投げる。
「打たれないだろう」とは思っていない。
あくまでも打たれないと思って投げる。

そこがキャッチャーとピッチャーの決定的に違うところ。
ひるがえっていうとこのプラス思考とマイナス思考がうまく合致すると名バッテリーになる

だから古田と城島の強気な性格は、キャッチャーにも監督にも向いていない。
彼らはピッチャー向きだからだ。

「名バッテリーは、ポジティブ思考のピッチャーとネガティブ思考のキャッチャーの調和である」との考えは、成る程だ。

たしかに、野球に代表される勝負事は、「悲観の上の楽観」が不可欠かつ最善だ。
各々は、「水と油」の思考&行動習性であり、一人格が全うするのは困難かつ基本無理だ。
「悲観の上の楽観」を別人格で調和するのは合理かつ賢明であり、だからこそ、それを高次に叶えたピッチャーとキャッチャーは「名バッテリー」として称えられるのだ。

人生は勝負事が不可避だ。
私たちは、名ピッチャーか名キャッチャーのいずれか、即ち、楽観論者か悲観論者のいずれかの極み、にならなければいけない。







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2011年09月17日

【NHK教育】「NHK杯テレビ将棋トーナメント」畠山鎮七段

【畠山鎮七段】
(※対局前の「今日(の対局)はどんな所に注目して欲しいですか?」の問いに)谷川(浩司)先生には九年間、去年の秋まで研究会で教わっていたんですけど、それから自分は更に強くなっているんで、力まずにそれが出せたらいいな、と思っております。

(中略)

【内藤國雄九段(解説)】
(※畠山七段が優勢の最終局面において)この間ね、なでしこジャパンの試合を観ましてね、全然関心が無かったんだけど、ドイツに勝ってからワーってきましたよね。
あれを観てね、思ったんですけど、物凄い平素の努力からね、チーム全体の闘志がわいてね、その溢れる闘志がね、勝負の女神の心を動かしたなあというね、強運というもののもとは闘志であるというね、だから、勝負で一番必要なのは闘志であるというね、一番当たり前のことを私は忘れとったんですね、他の色んなことを考えてね。
そうじゃない。
「勝ちたい」という、これが基本なんですね、勝負はね。
だから、これを畠山七段が勝つとすれば、「勝ちたい」という気持ちが(谷川九段より)彼の方が強かったんです。
「負けたくない」っていうね。

対局前の畠山鎮七段のインタビューコメントに感動した。
解説棋士の内藤國雄九段は、「『力まずにいきたい』と言ってたが、既に力んでいるのではないか(→大丈夫か)?」との旨、否定的な印象を吐露なさっていたが、私は真逆だった。
17世永世名人兼現役A級棋士であり、かつ、長年同じ研究会で直接的ならびに間接的に教示を仰いだで谷川浩司九段に対し、「今の自分はあなたが知っている私より格段に強い」旨、対局を前に、落ち着いたしっかりとした口調で喧嘩を吹っかけた、もとい(笑)、明言なさったからだ。

内藤さんは、変わり身が早いのか(笑)、終局直前、この明言を「闘志」と表し、一番の勝因と評しておられたが、今度は私も同感だった。(笑)
そして、強靭な「闘志」が、「負けたくない」という不敗の精神に立脚していることも。
畠山さんの勝利は、「有言実行」、それも強靭な「闘志」に基づく「有言実行」の成果に違いない。



★2011年9月4日放映分
http://cgi2.nhk.or.jp/goshogi/kifu/sgs.cgi?d=20110904

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2011年09月16日

【朝日be】〔「羽生を震わせた男」の勝負勘〕渡辺明さん

watanabejpg
ーーこれまでスランプになったことはありますか?

ないですね。
勝てなかったら実力ですから。
やり方を変えるしかない。
それでだめだったらやめるしかないでしょう。

正に「渡辺節」の炸裂だ。(笑)
「この世に、スランプという非科学的かつ不明なモノは、存在しない。
勝敗の分岐は、実力の高低しかあり得ない。
ゆえに、勝利を希求する棋士は、実力を高める術の開発と実行にのみ専心すべきである」。
渡辺明さん(現:竜王)のお考えは、至極簡潔で、合理的かつ説得的だ。

渡辺さんが私を含め(笑)多くのファンから愛され、かつ、若手棋士の壁の羽生世代、及び、羽生善治さん本人と互角ないし互角以上に渡り合っているのは、自他双方に対し、絶えずこのように情け容赦無く意見する所が大きいのではないか。
たしかに、絶えず情け容赦無く意見する所は羽生さんも同じだが、非科学的かつ不明(理解不能)なモノ及び因果を完全否定する(=思考から除外する)所と、「自他」の「他」に対しても積極的に絶えず情け容赦無く意見する所は羽生さんと違うのではないか。

とはいえ、渡辺さんが「他」に対して積極的に絶えず情け容赦無く意見するのは、実は、「自」に対するそれを担保するためなのではないか。
現在、渡辺さんと羽生さんが戦っている第59期王座戦は、実は、「似た者棋士」(笑)の人生観の現在決着の場なのではないか。



★2011年9月10日朝日新聞朝刊be掲載分
http://www.asahi.com/
http://blog.goo.ne.jp/nanapon_001/e/95ef6d07efefbca5049cd385aa343fa4
https://twitter.com/kimiohori/status/114486109244899328
https://plus.google.com/104086542955423361492/posts/G37pxEEBJHs?hl=ja

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2011年09月15日

【観戦記】「第70期名人戦A級順位戦〔第9局の6▲丸山忠久九段△羽生善治王座〕羽生、難局を制す」関浩さん

丸山(忠久九段)は7分を割いて▲4三歩成と突進し、△7八成桂▲同金と進んだ。

盤側は、先手(▲丸山九段)の勝ちになったのではないかと思った。

(中略)

ところが羽生(善治ニ冠)は、涼しい顔で△3四金と成銀を取り、▲3ニとと飛を取らせて△1三玉と逃げ越した。
驚いたことに、これで後手玉に詰めろがかからない。
▲3一馬は△2四玉、▲3五角は△1四玉で、後手(の羽生ニ冠の)玉は二度と捕まらない。

1分将棋まで考えた丸山は、▲3五飛の鬼手を放ったが、やはり詰めろにはなっていなかった。

羽生が少考して座を離れると、丸山は「バカでした」と力なくつぶやいた。
どの局面を念頭に置いて言ったのだろう。

戻った羽生が△6九銀とかけ、激闘に幕の下りる時がきた。
終局は午前0時25分。

過日、藤井猛九段が「形勢と勝敗は別物。将棋は最後が難しい」旨大盤解説会で仰ったが、当時、丸山忠久九段は正にこの心境を抱かれたのではないか。
自己を最強のマシン化する努力に励んでもなお、優勢と思いきや一瞬にして敗北の現実と責任の所在を突きつけられるところに、将棋の、勝負の怖さと辛さがある。
トップ棋士の強さは、この経験の量と受容力に依存しているのではないか。



★2011年9月15日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/



kimio_memo at 09:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 新聞将棋欄 

2011年09月13日

【観戦記】「第70期名人戦A級順位戦〔第9局の4▲丸山忠久九段△羽生善治王座〕グレーゾーンの戦い」関浩さん

夜戦に入り丸山(忠久九段)が収熱用のシートを使う頻度が増した。
額と後頭部への2枚張り。
思いのほか粘着力が強いことに感心する。

丸山は「考えていると頭が熱くなる」という。
さっそく控室で「まるでパソコンのようだ」と冗談のタネにさせてもらったが、その一方で、現代棋士を取り巻く過酷な環境を思った。

日進月歩の定跡を管理する能力だけではない。
詰むや詰まざるやの算出において、とうにコンピューターは人知を超えている。

機械が確実に性能を増してはいても、一流のプロフェッショナルであるならば、簡単に白旗を揚げるわけにはいかない。
むしろ自己を最強のマシンと化す傾向が強まっているのではないか。
近ごろのなりふり構わぬ丸山の戦いぶりには、滑稽さを突き抜け、現代棋士に悲壮感が漂う。

(中略)

この打ち合いは、どちらが得をしたのか。

羽生(善治二冠)は「△3一歩ではつらい」と語り、丸山は「(本譜の)▲6五歩では自信がない」と嘆いた。
要するに、はっきりしないのだ。
そして、このグレーゾーンでの戦い方こそ、コンピュターが人の感性に及ばない領域なのである。

とりわけ競争を旨とする資本主義社会では、人は自己を最強のマシン化する努力を免れない。
成功を遂げたビジネスマン、(更なる)成功を希求しているビジネスマンは、日々この努力を励行している。
なので、不遜だが、丸山忠久九段、ならびに、現代棋士がこの努力に苦慮なさっているのは、表層的には同情するが、根源的には当然かつ自然に思う。

丸山九段のこのご努力は「冷えピタ事件(?w)」として棋士とファンの間では周知だが、私がこの事件を知る度痛感するのは、冷えピタを必要とする頭の熱さをいまだ経験していない自分の体たらくさだ。
私が、いまだ成功道半ばなのは、冷えピタに頼らなければいけない程頭を使っていない、思考していないからに他ならない。



★2011年9月13日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/

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2011年09月11日

【講演】「いま、一人ひとりができること 東日本復興に寄せて」 谷川浩司九段

(前略)

今から16年前の1995年の1月17日、5時46分。
阪神淡路大震災が起きた。
当時、私は32才で、六甲アイランドのマンションに住んでいた。
六甲アイランドは新しい町で、被害は少なかった。
だが、ガス漏れが起こり、半日間だけ避難所生活を経験した。

3日後の20日に大阪の将棋会館で対局があり、2日後の19日に妻の運転で向かうことにした。
六甲アイランドを出て、神戸の町が壊れてしまったのがわかった。
家が道路のそばでグシャッと倒れていた。
生き埋めになっている人が居た。
こんな中、自分が将棋を指しに大阪へ行くのが本当に良いのものかと考えた。
しかし、当時、私は王将戦(※タイトル戦)を戦っていた。
仮に、20日の対局を延期してもらったとしても、他の対局に影響してしまう。
それに、こういう時に活躍できるのは消防士や自衛官で、私のような将棋指しは足手まといになるだけだ。
結果、「自分が今できることをするしかない」と考え、「自分は将棋を指すしかない」と本能的に対局に臨んだ。

20日の対局は勝利した。
その後、二ヶ月位好調が続いた。
羽生善治さんに七冠獲得を目指して挑戦された王将位も、防衛できた。
好調の理由の一つに、楽観があった。
普段は悲観的になりがちな形勢判断が、この時は楽観的だった。
今回東日本大震災を被災なさった人も直後はそうだったと思うが、「皆等しく悲惨な思いをした」という連帯感と、「この状況を何とかしなければ」という高揚感があり、妙に元気だった。
それに、中学でプロになり、好きな将棋を一生の職業にできた時は嬉しかったが、時間が経ち、勝負の厳しさを思い知る内に、好きな将棋が指せることの嬉しさ、初心を忘れていた。
しかし、未曾有の天災に遭い、普段当たり前にしていたことができることの有難さ、嬉しさを痛感した。
将棋が指せるだけで嬉しかった。
負けることが怖くなかった。
たしかに、この間、ホテル住まいや妻の実家暮らしを強いられた。
だが、対局している時は、辛さや心配事の一切を忘れた。
また、自分が神戸を代表しているような意識もあった。

しかし、羽生さんは、翌年も七冠獲得を目指し、再度王将位に挑戦してきた。
そして、今度は、前年とは異なり、全く勝負にならず、ストレート負けを喫した。
一年前、私だけではなくみんなが、「羽生さんの七冠獲得のチャンスは潰えた」と思っていた。
一年間、六つものタイトルを防衛するのは、至難の業だからだ。
けれども、羽生さんは、これをやり遂げた。
他方、この一年、自分は何をしていたかというと、王将位以外のタイトルを一つも狙えない有り様だった。
現実の生活を取り戻す人と取り戻せない人の各々が出始め、震災直後に感じた連帯感と高揚感、ひいては、楽観は無くなった。
換わりに、それらの疲労感が出、調子も良くなかった。
羽生さんと戦う前から、勝負は見えていた。

羽生さんにこの時負けたのは気持ちの問題が大きかった。
20代の時は、中原(誠)さんや米長(邦雄)さんといった先輩との争いだった。
しかし、その後は、後輩との争いになり、なかなか成績が残せなかった。
当時、羽生さんには一年半で七連敗していた。
負けが込み、この時は、対局そのものに前向きでなかった
対局に際し大事なのは、普段不断に研究し、自分の力を100パーセント出すことだ。
けれども、この時は、「どうしたら羽生さんに勝てるのか?」に重きを置き過ぎてしまった。
結果、自分のスタイルを崩し、長所を失ってしまった。

気持ちの問題が一番大きかったのは、震災の二ヶ月前の棋聖戦の挑戦者決定戦の時だ。
羽生棋聖に挑戦する権利を得たにもかかわらず、嬉しくない、滅入っている自分が居た。
相手が羽生さんだったからだ。
これでは、勝てるはずがない。
今考えれば、勝てない理由は簡単にわかる。
しかし、不調やスランプにハマっている時は、全くわからない。
不調やスランプは、いざ脱出できると、「こんなものか!」である。
けれども、ハマッている時は真逆で、結果、なかなか脱出できない。

羽生さんに王将位は奪取されたが、秋に竜王位を奪取した。
そして、翌年には、名人位も奪取した。
復活へ向けやった努力そのものは、それまでとさほど変わらない。
気持ちの問題がクリアされたのが大きい。
羽生さんに対して負けが込み過ぎて、以前ほど勝負(結果)を気にしなくなった。
また、当時、羽生さんは結婚を控え、連日ワイドショーに出るなど、将棋界とは異なる別世界の人に見えるようになった。

(中略)

棋士は、幸いにも、スポーツ選手とは異なり、40才、50才になっても現役で居られる。
しかし、現役を長く続けても初心を忘れないようにする、常に新しい気持ちで将棋に向かい合うのは、簡単なようで難しい。
だから、研究の方法にしても、詰め将棋をやるとか、研究会に参加するとか、複数の引き出しを持ち、状況により自然に選ぶのがいいと思っている。
「努力する」とか「頑張る」という言葉は、できる限り使わないようにしている。
何か嫌々やっているように感じられるからだ。
それらは、自然にできるのがいい。
朝起きて、朝、昼、晩と三食食べるのと同様、自然に将棋を指す、自然に研究するのがいいと思っている。

(中略)

私が将棋を始めた頃とは異なり、今は、将棋を指す子供が増えている。
インターネットもあり、強くなる環境が整備されている。
当時は、子供がアマ四段位になると、プロ(になる資質)を見込まれたものだが、今は本当は将棋に向いていない子供でも、比較的簡単にアマ四段位にはなれる。
そして、プロを目指してしまい、結果頓挫する不幸なケースが見受けられる。

(後略)

講演を拝聴し、谷川浩司九段は、ポジティブな意味において、「古き良き日本人」だと直感した。
努力を当然事と考え、自分より、他者や社会の心情の機微を斟酌、優先なさるよう伺えたからだ。
かねてから谷川さんのことは人格者だと思っていたが確信に至った。

とりわけ聞き入ったお話は、阪神淡路大震災を罹災なさった前後の、羽生善治さんとのタイトル争いにおける心情変化だ。
谷川さんは、大山康晴さん、中原誠さんに続く永世名人で(十七世名人)、後世に残る実績者だ。
その谷川さんをしても、時間が経ち、外部環境(特に主要競合者)が変わると、初心を維持しあぐねた。
不成功が立て続き「気持ちの問題」が宿り、努力のプロセスが偏りのあるものに変容した。
結果、不成功のスパイラルに、いわゆる、不調、スランプに入り込んでしまった。
未曾有の天災がインセンティブとなって初心を取り戻したが、一過性かつ他律ゆえ、長続きしなかった。
そこで、不成功を開き直り、初心を自律的に維持する思考、行動を模索し、努め、復調を果たした。
「いかに、初心を維持することが難しいか」。
「いかに、不成功の主因の所在を自分(⇔競合者)に求めることが難しいか」。
「いかに、未曾有かつ他律的なインセンティブの効用は、強力であるも短いか」。
「いかに、開き直ることが正攻法的には難しいか」。
「いかに、初心を自律的に維持する試みが成功に効くか」。
とりわけ以上の事項を痛感した。



★2011年9月2日赤羽会館にて催行
※1:上記内容は意訳。
※2:聞き手は中村雅子さん
http://blog.livedoor.jp/wag22687/archives/3899182.html

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kimio_memo at 07:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 講演/セミナー 

2011年09月09日

【観戦記】「第70期名人戦A級順位戦〔第9局の1▲丸山忠久九段△羽生善治王座〕難しい年回り」関浩さん

「棋士の40代は指し盛り」。
昭和の時代は、そう言われたものである。
しかし、定跡が長足の進歩を遂げた現代では、棋士のピークは早まっていると思われる。
きょう有効だった定跡が、あすも通用するとは限らない。

羽生世代も難しい年回りを迎えたと思う。
第68期は佐藤康光九段がA級から滑り落ち、佐藤の返り咲きと入れ違いに、前期は藤井猛九段がA級を去った。

何年か前の話だが、自宅でNHK杯戦を観戦していて、慄然としたことがある。

トップ棋士と有望新人の一戦だった。
盤を挟んだ二人をぼんやり眺めているうちに、突如としてトップ棋士を、若手の行く手に立ちはだかる意地悪な役回りと見なしている自分に気づき、ギョッとなった。

俊英の飛躍に期待を寄せるのは、万人の自然な感情なのであろう。
羽生世代も親子ほど年の違う先輩棋士と矛先を交え、スターダムにのし上がった。
それからざっと20年。
新旧対抗の構図は立場が変わり、羽生世代もやりにくさを感じる場面が増えたのではないか。

(中略)

羽生(善治)王座と丸山(忠久)九段の2回戦。
盤上は角換わりへ進む。

若い人が知見に富む年長者に積極的に戦いを申し込むのは、進んで100本ノックを受けに行っているようなものだ。
戦えば戦うほど、打たれれば打たれるほど、強くなる。
しかし、年長者が若い人に積極的に戦いを申し込むのは、アプローチを間違えると、可能性の芽を個人的かつ社会的に摘むことになりかねない。
社会は、持続性の断絶を許容しない。
積極的に戦いを申し込むのは人生の常だが、年長者はこのことを忘れてはならない。

自分を振り返っても思うのだが、若い時分、年長者に積極的に戦いを申し込んだ人間ほど、年長者になると、若い人の芽を摘む可能性が高いのではないか。
なぜなら、厄介なことに、気持ちだけは若いままだからだ。
可能性の芽を個人的かつ社会的に摘むリスクの自覚が希薄なのだ。
人は、年を取るほど、主観が膨張し、下手を固めてしまう。
年長者ほど、客観力を陶冶、担保しなければいけない。



★2011年9月9日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/

kimio_memo at 11:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 新聞将棋欄 

【NHK】「あさイチ」高良健吾さん

【井上真央さん】
高良健吾さんは、とてもカッコいいんですが、(「おひさま」の撮影中)「(この人)オンナ心がわかってないな」と思うことが多々ありました。(笑)
(たとえば、自分を)おんぶしてもらうシーンがあったのですが、そのシーンを撮り終えた後、高良さんに「ごめんなさい、重たかったでしょ?」と言うと、「30キロ以上のモノはみんな重いですから」と言われました。(笑)

【高良健吾さん】
「重くなかった」というと嘘になるので、自分としては考えて、気を遣って言ったつもりだったのですが。(苦笑)

たしかに、高良健吾さんはカッコいい。
しかも、とても誠実な人のようなので、さぞ若い頃(今でも十分若いがw)からおモテになったに違いない。
だが、井上真央さんが仰ったように、所謂オンナ心は少しばかりおわかりではないようだ。
井上さんの例示の質問文は、質問文の形式こそ取っているが、実際は「強制同意(?・笑)文」だ。
回答など、つゆも期待(欲求)していない。
ゆえに、回答、それも、合理的な回答は禁物なのだ。(笑)

しかし、妄想だが、これは確信犯なのではないか。(笑)
高良さんは、若い頃からモテまくり、所謂オンナ心を活用しないとなびかない凡庸な女子は、もうお腹一杯であられるのではないか。(笑)
そして、自分の本心を正確に伝えようとするさまに男としての誠実さと自分のアイデンティティを見出してくれる女子にのみ、魅力と関心を抱かれるのではないか。
ちなみに、この妄想は非イケメンの私の人生経験に基づいており(笑)、私は高良さんを一層好きになった。



★2011年9月9日放映分
※上記内容は意訳。
http://www.nhk.or.jp/asaichi/2011/09/09/01.html



kimio_memo at 09:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0) テレビ 

【日本経済新聞社】「第59期王座戦第一局▲渡辺明竜王△羽生善治王座」藤井猛九段

先手渡辺明竜王の初手7六歩に対する、後手羽生善治ニ冠の8四歩は驚いた。
タイトル戦の第一局は野球に例えると開幕戦で、羽生二冠も様子を見るものだが、この手は、「今回は開幕戦からエースを投入しますよ」と言っているようなものだ。(笑)
相手が、強く、勢いがつくと止まらない渡辺竜王だからだろう。

(82手目の)9五歩は、羽生二冠が不利を自覚した手。
「自分の力ではもうどうしようもないので、相手の力を利用しよう」というパス手(=手渡し)だ。
夕食はもう終わっているはずだが、羽生二冠は夕食を食べていて味が全然しなかったと思う。(笑)

タイトル戦で対局していて形勢が悪い時に気になるのは、終局時間が早くなり過ぎることだ。(笑)
タイトル戦は、多くのスタッフが、ニ、三日かけて舞台を整えてくれて初めてできる。
だから、負けるのは仕方無いとしても、終局時間があまりに早過ぎると、持ち時間を(多く)余して投了してしまうと、スタッフに対して申し訳ない気持ちになるし、そもそも、「何やってんだよー」とか「何しに来たんだよー」っていう(場の)空気がある。(笑)
もはや、自分だけの問題ではなく、対局前に言う「全力で指したい」という意気込み、心境に本当になり、夕食休憩に入ると安堵したりする。
本当は、「そんなことより、逆転の筋を探せよ!」なのだが。(笑)
そういうことなので、夕食休憩前、(劣勢で、渡辺竜王よりも持ち時間を多く余らしていた)羽生二冠には、(投了せず)もっと(持ち時間を使って)考えてくれないか、と思った。(笑)

羽生二冠は渡辺竜王のことを嫌いだと思う。(笑)
もちろん、「嫌い」といっても、人間的にではない。(笑)
棋士はみな「オレの行く手を阻むものは、誰だろうが容赦しない!」と思っているもので、羽生二冠も(王座戦)20連勝を阻止しようとしている渡辺竜王のことは嫌いなはずだ。(笑)

羽生二冠は、今年達人戦(というタイトル戦)に初出場し、見事優勝した。
羽生さんは正に達人だ。(笑)
達人戦は、40才以上の棋士が対象で自分も含まれるのだが、40才の棋士は他にも丸山、森内などたくさん居て、除外された。(笑)
昨年優勝し、本年は惜しくも準優勝になった佐藤康光九段が「今年の達人戦は(先輩ばかりではなく同世代の)羽生二冠が居たのでホッとした」と仰っていたようだが、出れるものなら、私は、達人戦より、むしろ新人王戦に出たい。(笑)

もし、本局(=第一局)を羽生二冠がひっくり返して勝てば、羽生二冠は(王座)20連覇(確定)ですよ。(笑)

私も、この前JT杯で渡辺竜王と戦い、現在の渡辺竜王の状況(=優勢)になった。
で、そこから(正確に)寄せればいいのだが、その時は寄せられず、なぜか負けてしまった。
まあ、負けるのはいつものことなのだが。(笑)
で、事後談があり、渡辺竜王は「お、これはツイてる!」と思ったようだ。
そこで、渡辺竜王は、なんと(対局地の)札幌にもう一泊して、翌日札幌競馬へ行った。(笑)
こっちとしては頭にくるけど、上田(初美女王)さん、今晩(の王座戦の打ち上げで)、渡辺竜王に札幌競馬の結果を聞いておいてくれないか。(笑)

勝ちが続いていると、考えが雑になる。
読みをきちんと入れずに、「まあこんなものだろう、最近勝ってるし」って思ってしまったり、「まあ、相手も最善手を指してこないだろう」って相手のミスをも期待してしまう。

羽生二冠は、先日棋聖戦を4連覇し、タイトル獲得数を通算79期に伸ばした。
大山康晴十五世名人が持つ80期は眼前だ。
羽生二冠がここまでタイトルが獲得できるのは、「取られたら(翌年)すぐ取り返す」、「決着局に強い」のが大きい。

形勢(の良し悪し)と勝敗は別物
将棋は最後(=正確に寄せて、勝ち切ること)が難しい。

藤井猛九段の大盤解説は6月の名人戦に続き今回で二度目だが大満足した。
トッププロの心情や機微、そして、勝負の駆け引きや本質を、また自虐ネタを核に(笑)「半分冗談半分真剣」の体裁で教示いただけたからだ。
物事の本質を「半分冗談半分真剣」の体裁で他者に伝えられるのは、本質を熟知していることに加え、本質と今の自分との関係性と俯瞰(客観)できている証だ。
不可能ではあろうが、藤井さんには是非新人王戦にも出場いただき、秘めた可能性を切り開いてくださったらと心底思う。

余談だが、「次の一手」のコーナー(=「次の一手」を観覧者から募り、当てた人には抽選で褒賞を授与するコーナー)で、微笑ましく、かつ、感心、考えさせられることがあった。
「次の一手(=84手目)」の候補手の一つは藤井さんの案(=△9六歩)だったが、外れてしまった(→正解は上田女王の案の△4三銀)。
当った人は70名近く居られ、本来なら彼らにのみ褒賞(=羽生二冠と渡辺竜王と藤井さんのサイン色紙)が授与されるのだが、藤井さんは、「自分の案に投じてくれた人に対して申し訳ないので」との旨独自判断なさり、ご自分の色紙を、それも、私の目に間違いがなければ「我自我自」と書かれた色紙を(※他には「心眼」と書かれた色紙を発見)、△9六歩に投じた人の一人に抽選で授与された。
私はいよいよ藤井さんを敬愛して止まない。



★2011年9月7日催行
※1:解説女性棋士は上田初美女王
※2:上記の藤井九段の言はいずれも意訳
http://kifulog.shogi.or.jp/ouza/2011/09/post-2787.html



kimio_memo at 08:09|PermalinkComments(0)TrackBack(1) 将棋大盤解説会 

2011年09月08日

【観戦記】「第70期名人戦A級順位戦〔第8局の6▲佐藤康光九段△谷川浩司九段〕谷川連勝、佐藤連敗」甘竹潤ニさん

これで谷川(浩司九段)は開幕2連勝。
連敗発進となった佐藤(康光九段)と明暗を分けることになった。

実は2人の順位戦にはこんなデータがある。
昨年までの10年間で谷川は開幕戦が9勝1敗、第2戦も6勝4敗。
前々期、前期はともに開幕から4連勝を飾った。
ところが、後半は前々期1勝4敗、前期5連敗と失速。
後半戦が課題となっている。

一方の佐藤は同じくここ10年間で開幕戦は4勝6敗だが、ここ7年では1勝6敗。
A級昇級を決めた前期も黒星発進だった。
つづく第2戦も4勝6敗。
ところがラス前は8勝2敗、最終戦は7勝3敗で乗り切っている。

スロースターターの佐藤にとっては、これからが正念場なのである。

佐藤康光九段がスロースターターなら、さしずめ谷川浩司九段はアーリースターター(?)か?(笑)
スロースターターとアーリースターターを分かつ資質の一つは、「プレッシャーが糧になるか否か」だ。
妄想だが、佐藤さんは夏休みの宿題を8月31日に仕上げ、谷川さんは夏休みに入ると早々に仕上げておられたのではないか。(笑)



★2011年9月8日付毎日新聞朝刊将棋欄
http://mainichi.jp/enta/shougi/



kimio_memo at 12:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 新聞将棋欄 

2011年09月07日

【経営】「ユニクロ帝国の光と影」柳井正さん

P284
ビジネスにおいては辛いことがイコール正しいことなんです。
でも見方によったら、ビジネスほど面白いものはないよね。
ビジネスって、毎日、成績表をもらうのと同じでしょう。
売り上げとか利益とかいう成績表が毎日出てくる。

自分たちでお客さまにいい商品を提供して、喜んでもらって、しかも儲かる。
こんないい仕事はないと思います。

「辛いことが正しいこと」なのは普遍の真理である。
トップが「辛いことが正しいこと」と断言している組織は、辛いに違いないが、強い。


ユニクロ帝国の光と影
横田 増生
文藝春秋
2011-03-23


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2011年09月05日

【将棋】「将棋をやってる子供は、なぜ「伸びしろ」が大きいのか?」安次嶺隆幸さん

P17
この「お願いします」「負けました」「ありがとうございました」が3つの礼。

(中略)

将棋は、相手がいなくてはできません。
目の前に座っている人がいてくれるから対局が成立する。
だから、「お願いします」「ありがとうございました」と敬意を表して挨拶をするのです。

「負けました」の礼にしても、大きな意味があります。
将棋の一手を積み木にたとえると、対局するということは、自分が積み木を置いたら相手がその上に重ねて積み木を置くといった具合に、百何十もの積み木を注意深く積み上げていくようなもの。
そこには、自分だけでなく相手が熟考を重ねた時間や思いも積み重ねられている。
だから負けたら、「自分の考えが足りませんでした」「やっぱり自分が弱かったです」と潔く自分の負けを認め、相手に「負けました」と宣言しなければならないのです。

そして「感想戦」は敗者への慰めであり、「次はがんばれよ」という声援でもあります。
それを通じて、負けた者も次へ進む「勇気」と「負けから学ぶ姿勢」を育むことができるのです。

古来、日本には武道や茶道など「○○道」という、型から入って、そこに込められた「心」を体得していく文化がありました。
将棋における3つの礼は、まさにその「型」に通じます。

自己否定は成長の好機だが、概して見過ごされる。
現在の能力に加え、過去行なった思考や意思決定の駄目さ、不十分さを責任追及されるからだ。
成長は、現状の総括と清算無しにあり得ない。
私たちは、自己否定の勇気を不断に持ち続けなければいけない。


P66
じつは以前、羽生(善治)名人に「将棋に闘争心はいらないのですか?」と聞いたことがあるのです。
「当然いりますよね?勝負ですものね」と言ったら、軽い口調で「いらないんですよ」と。
私は思わず、「あの、ホントですか?」と確認してしまいましたが、「ええ、いりません。闘争心はかえって邪魔になることもあるのですよ」とおっしゃるのです。

(中略)

しかし考えてみれば、将棋は自分一人ではできません。
目の前に座っている相手がいてくれるから対局が成立する。
何度も繰り返しになりますが、将棋とは、対局者が二人して、自分の力を出し切って最善手を模索し合う競技です。
ですから自分が一手を指したら、次の一手は相手にゆだねるしかないのです。

これは日常生活における人間関係でも同じかもしれません。
たとえば仕事の場面で、営業マンが絶対この話をまとめてみせる、相手に「うん」と言わせてみせると、自分一人で息巻いてみたところで、相手が思いどおりの色よい返事をしてくれるとは限りません。
むしろ、強引に結果を求めるその姿勢に相手は辟易して、イヤな感情さえ覚えてしまうこともあります。

が、誠心誠意説明したあと、「では、あとのご判断はおまかせしますので、ゆっくりお考えください」と相手にゆだねてみると、相手も案外その気になってくれて、いい結果につながることがあるものです。

絶対勝とう、何としても商談をまとめよう、という気持ちが先行すると、そこのばかりこだわってしまって、広い視野で物事を見られなくなってしまいます。
すると相手が自分の思惑と違った反応をしてきたとき、対応できない。
失敗をカバーできないから、ダメージも大きくなる。
しかし、最善を尽くしてさまざまな手を考えたうえで、あとは相手にゆだねることができたなら、柔軟に対応することが可能です。
人間関係においては、そうした心の余裕が相手を受け入れる度量が必要なのです。

(中略)

「闘争心はいらない」とは、勝ちを意識しすぎたり、勝負に力んでしまったりすると、そのせいで肝心なことが見えなくなって自分の力を出せなくなることがある。
そのブレーキ役が闘争心ということだったのでしょう。

(中略)

相手が勝ち気いっぱいで臨んでくれば、相手の気持ちや指し手は読みやすい。
しかし、闘争心を捨てて何でもどうぞという態度で来られたら、棋士にとって、これほど恐ろしい相手はいないのではないでしょうか。

闘争すべきは、最善努力から逃げようとする自分であって、眼前の相手ではない。
眼前の相手は、最善努力、ひいては、成長、成功の好機、パートナーである。


P78
しかし、そうやってすごくたくさんの手を読んでも、その読みがすべて無駄になってしまうかもしれないのです。
考えてはみたけれど、その結果、やっぱりこの手はダメだということも当然あるわけです。
むしろ、ダメだという結論に達する手がほとんどです。
そうしたら、そこまで読んだものを捨てて、また一から考えることになるのです。

(中略)

「そこまではちょっと無理なのではないですか?」と、以前、羽生名人に何回か食い下がって聞いたことがあるのですが、「いいえ。その読みはけっして無駄にはなりません。形が変わるかもしれないけれど、必ずどこかで応用できます」という答えが返ってきました。

(中略)

羽生名人の著書に「変わりゆく現代将棋」という本があるのですが、そこにはまさしく無駄が書いてありました。

変わりゆく現代将棋 上
羽生 善治
毎日コミュニケーションズ
2010-04-23


「こうやると、こうなって、そのあとはこうなって、こういう局面になるから、この手はやっぱり少し疑問だ」などと、ご自身の読みの一部を披露なさっている。
私は読んだだけでなく、それを追って実際に駒を並べてみたので、「え?せっかく並べたのに、だったら、これじゃなくてもよかったんだ」とか、「じゃあこっちなんだ」と面食らうこともあるほど、複雑な読みが書いてある。

そこまでオープンにしてしまう姿勢に驚くと同時に、いつもこういう作業をなさっているのだと舌を巻いてしまいました。

さらに、そういうふうに書けるということは、さまざまな手の道筋をはっきりと覚えているということになります。
こういうときは、こうなって、ああなって、だから疑問な手だ、でもこういうときなら、もしかしたら使える手かもしれない、などとちゃんと整理されている。

ということは、読みの無駄は先の言葉どおり、やはりけっして無駄ではないのです。
そのときは一見無駄なように見えるかもしれないけれど、自分の中では絶対に無駄にはならない作業をしていることになるのです。

こういう作業をないがしろにしないのは、将棋が相手だけでなく自分との戦いでもあるからです。

自分との戦いという観点から考えてみると、しっかり読んで指した手は、たとえその対局に負けたとしても自分自身に納得がいく。
しかし、途中でいいかげんに指して負けたとしたら、たとえ勝っても、あとには自己喪失・自己嫌悪だけが残ってしまう。
棋士はこれをもっとも恐れているのです。

なぜなら、将棋はすべて自己責任。
結果はすべて自分で背負わなければならないからです。

自分自身を信じる気持ちがなければ、どうやって自分の手を指していくというのでしょうか。

現状の最適解が不変の最適解であり続けることは、あり得ない。
だが、現状の最適解を案出するのに要したプロセスは、実行の躊躇を無くし、未来の最適解を案出する先駆けになる。


P102
最善の手を考えることは、正しい道を探る作業でもあります。
それについても、自分は正しい道を選んだつもりだったけれど、もしかしたらそれは正しい道なのではなくて、自分勝手な道だったのかもしれない、と考えられるようになっていきます。

人生においてはもちろんのこと、将棋においても、正しい道を探すのには困難が伴います。
とちらに進んだらいいのか皆目わからない霧の中を歩むのは、けっして楽な作業ではありません。

そんな霧の中でむずかしい局面にぶつかったとき、「これが自分の個性だから」「こう指したいから」と安直に結論を出してしまえば、その場はしのげるかもしれません。
つらくめんどうくさい作業なんて、しなくてすんでしまうかもしれません。

(中略)

けれど、「自分はこうだ」「こうしたいんだ」という独りよがりは個性ではありません。
それは、他人の眼を意識しないでスプレーで落書きをするようなもの。
本当の個性は、そうした独りよがりのはるか向こうにあるものではないでしょうか。

将棋においても初めのうちは、子供たちは「ぼくはこういう手が好きだから」「こう指したいから」と指してしまうことがよくあります。
しかし、負けることによって、「こう指したい」というのは自分の好みで選んでいるだけだった、その局面ではよく考えて、こう指すべきだったのだ、ということが次第にわかってくるのです。

そうした積み重ねによって、「ちょっと待てよ。ここは一手辛抱してみようか。そういえばこの間、誰かがこういう手を指していたな。だったら、ここはこうしたほうがいいんじゃないか」と、心の中で葛藤することを覚えていくのです。
その葛藤が、自分の好みと正しい道の違いを気づかせてくれるのだと思います。

教育でもよく使われるが、昨今「個性」は、努力怠慢の免罪符と化している。
「個性」とは、神もしくは後世のみが判断し得る「もう一つの最適解」である。


P109
以前、羽生名人に「プロとアマチュアの将棋で一番の違いは何ですか?」とうかがったことがあります。
そうしたら、「なかなか寄せられない終盤戦をいかに耐えていくか。その我慢の力ですかね」とおっしゃっていました。

勝利を目前にして勝ちに向かうとき、あるいは負ける寸前だが可能性はまだ残されているとき、立場は違えどそうした踏ん張りどころこそ、もっとも自分が試されるとき。
一流のプロ棋士は、そこをぐっと耐えることができるということなのです。

成る程だが、可能性を信じ耐える力があるから、プロ(に)な(れる)のか。
それとも、可能性を信じ耐える理由を見つける力があるから、プロ(に)な(れる)のか。


P114
もちろん将棋の詰み勘のほうは、そんなにたやすく身につけることはできません。
しかし子供でも、一度勝てると自信がつく。
勝てると、それまで自分が努力をしてきたことを「そうだったんだ。これでよかったんだ」と思えるようになる。

言ってみれば、自転車に乗れるようになる感覚です。
一度自転車に乗れると、「あれ?乗れたぞ!」という感じで、どうして乗れたのかはよくわからないけれど、そのコツを体得できます。
そうしたら、次からは必ず乗れる。
それに似たことを勝つことで体験することができるのです。

そしてその自信が揺るぎないものになって、努力する道筋がはっきり見えてくるのです。
成功体験が次の勝ちにつながり、さらには詰み勘を養っていくことにもつながるわけです。

(中略)

こう考えてみると、”考え続ける筋肉”を鍛えるということは、すなわち”自信の筋肉”を鍛えることでもあるのです。

成功体験を得る(重ねる)ことは、”自信の筋肉”を鍛えることである。


P125
戦法にしても、棋士それぞれに得意とする戦法があります。
相手が得意な戦法においては相手が上、自分は弱いと認めることができれば、そこでは相手の言い分を聞いてみようという態度で臨めます。

そういうふうに気持ちを整理して、その分野の専門家の声に素直に耳を傾けてみると、「なるほど」と教えられることは多いものです。
たとえ負けたとしても、そこでつかんだものを次に生かせばいい。

その経験を参考にして、次の機会に自分で応用できれば、相手の学びから自分も多くを学びとることになります。

自分の弱いところを認めたことが、大きな視点に立ってみれば、自分の弱さを克服することにつながるわけです。

羽生名人は、しばしば相手の得意戦法に立ち向かっていきます。
何も戦法を相手に合わせる必要はないのです。
素人考えでは、相手がそれに長じているなら、それを避けて、違う戦法で戦えばいいように思います。
ところが、羽生名人はあえて同じ戦法に飛び込んでいくのです。

相手の得意戦法に立ち向かうのは、それでも戦えると考えているようにも見え、自分への過信の表れでは?ととらえる読者の方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、それはまったく逆です。
羽生名人は、相手が自分よりその戦法に秀でていると認めているからこそ、自分の弱さを認識しているからこそ、それに挑んでいるのです。

相手の学びを自分も学ぼうというその姿勢、その謙虚さーーひょっとすると、これが羽生名人の強さの秘密なのかもしれません。

将棋の世界では、どんなに強くても百パーセント完璧ではいられません。
自分は百パーセントではない、自分よりもっと上がある、まだまだ教えてもらうことがある。
そう思える謙虚さが、学び成長する原動力になるのです。

「藤井システム」の創造者である藤井猛九段は、「『藤井システム』を正確に指しこなせたのは、自分をおいて、羽生さんだけだ」と、雑誌のインタビューで仰っていた。
相手の強さと自分の弱さを共に認め、相手の学びを謙虚に学び抜けば、創造者と同等に、解(ソリューション)を会得できる可能性があるということか。


P144
羽生名人は「銀」使いの名手です。
それができるのは、日々研究を積み重ねている賜物。
私がそれを怖いほど感じたのは、羽生名人の駒を見たときでした。

じつは、私が将棋の駒を買おうと思っていたら、「手元にありますから送りますよ」と所有なさっていた竹風作の逸品をくださったのです。
届いた駒を見ると、それは羽生名人が日夜研究に使っていた駒でした。
それがなんと驚いたことに、銀だけ裏がすり減っていたのです。

パチっと盤面に打ちつけるときに、駒はこすれます。
しかし、硬い柘植でできている上等な駒だけに、並たいていのことではすり減るはずがありません。
研究のために盤面に駒を並べ、銀をどう使うか考えながらよほど繰り返し、繰り返し打ち付けたのでしょう。
使い込んで美しい飴色になっている駒は、ほかはみんなきちっと角張っているのに、銀だけがすり減って角が欠けたようになっていました。

名手と称される人は、必ず、並大抵で無いことを、並大抵にやっている。


P191
感想戦とは、対局を巻き戻して「これが悪手だ」というものを見つけ出す作業と言い換えてもいいでしょう。
そのためにプロ棋士は感想戦を何時間もかけてやるのです。
そして悪手を見つけたら、どうしてそんな手を指してしまったのか、そのときの自分の心理状態や相手への気持ちはもちろん、体調や食事、前日の過ごし方など何もかも全部さらけ出して敗因を考えるわけです。

悔しさや情けなさといった気持ちをぐっとたたんで、自分の弱さと向き合わなければならないのですから、それはつらい作業です。
しかし、だから悪手から学べる。
単に「あーあ、失敗しちゃった」というだけでは終わらない。
感想戦という儀式があるおかげで、一局を客観的に見直すことができ、敗北から学ぶことができるのです。

よくぞ先人はこうした儀式を作ってくれたと感心させられます。
たしかに弱さに向き合うのはつらいものです。
感想戦はその一番つらいことをしなさいと促す、一件酷なシステムです。
けれど、だからこそ、感想戦という儀式がありがたいのです。

つらいからこそ、儀式の形になっていなかったならば、勝者も敗者も一緒になって敗因を検討しようとしたら、そのつど対局者同士が相談して、「つらいだろうけど、一緒に悪手を検討してみようと」と決めなければなりません。
それはもっとつらい。
ところが、儀式で検討することが決まっていれば、すんなり儀式に移ればいいわけです。

儀式だからこそ、自分の弱さに素直に向き合えるということはあるのではないかと思うのです。
儀式にのっとったほうが、自分の弱さを認めたり、つらさを乗り越えたりすることができるという面もあるのではないでしょうか。

感想戦は「儀式」であり、「to do」だ。
将棋が持続的に発展しているのは、棋士の相対的な棋力が持続的に向上していることに他ならない。
そして、それは、感想戦という検証と総括のプロセスが「to do」化されていることが大きい。
将棋には、老舗企業と同様、持続的に発展する「仕組み」がある。







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2011年09月04日

【NHK】「細野晴臣 音楽の軌跡」細野晴臣さん

同じことの繰り返しほど、あほらしいことはないしね。
やはり、そこに何か発見とかクリエイティビティなるものが、常に新しく芽生えていないと、衝動が出てこないっていう。

(YMOの散会に際し)疲れ果てて、芸能人のような感じになっちゃいましたから。
音楽にとどまらなかったですよね、カルチャーとして捉えられてたから。
何かのキャラクターになってしまったわけで、やりたいことが制約されてきたんです。
というのは、「RYDEEN」のような曲をまた作ってくれと言われることが出てきて。
同じことは二度できないんですよね、みんな。
繰り返しはできない。
商売じゃないですから。
そこらへんが割と青二才というかね、音楽ばっかりのこと考えてたんで。
それで嫌になっちゃんですよ(YMOを続けていくことが)、結果はね。

(YMOの活動を再開して)何か一回りするんだという実感があったことはあったんですよ。
だから、人生は、一直線じゃなくて、螺旋を描いて回っているんだと。
同じ所に居るようで、上から見ると同じだけど、横から見ると、螺旋なんで、違う所に居るんですけど、二次元的に見ると、同じ所に居たりもするんですよ。

たしかに、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)に狂った私は、「RYDEEN」と「TECHNOPOLIS」を毎日聴き(笑)、「RYDEEN」のような曲がまた出るのを待ちわびた。

ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
Yellow Magic Orchestra
ソニー・ミュージックハウス
2003-01-22


しかし、それは叶わなかった。
けれど、結果として、それは良かった。
なぜなら、「RYDEEN」のような分かり易く、キャッチャーな曲が皆無な「BGM」が、今の私の”YMOベストアルバム”だからだ。

BGM
YMO
ソニー・ミュージックハウス
2003-01-22


たしかに、「BGM」を初めて聴いた時は、落胆した。
「RYDEEN」のような曲が無いばかりか、曲調や音色が悉く暗く、萎えた。
YMOの終焉さえ予感した。
しかし、繰り返し聴く毎に、印象は変わっていった。
「なんだかよくわからないが、これはスゴい」と。

「BGM」がリリースされ30年の時が流れた。
YMOはいまだに大好きだが、「RYDEEN」は専らライブアルバム(「FAKER HOLIC」)のを聴いている。
スタジオアルバムでよく聴くのは専ら「BGM」で、次は次にリリースされた「TECHNODELIC」だ。

テクノデリック
YMO
ソニー・ミュージックハウス
2003-01-22


音楽に限らず、名作は時間に負けない。
そして、時間と共に価値を表出する。
「BGM」を聴く度、つくづくそう感じる。

名作が時間に負けず、時間と共に価値を表出するのは、根源的な新しさ、クリエイティビティがあるからではないか。
そして、そうした根源的な新しさ、クリエイティビティは、創造者(クリエーター)が、同じこと(方法論)を繰り返すことへの嫌悪と畏怖を積極的に受容することからのみ生まれるのではないか。



★2011年5月29日放送分
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2011/0529.html

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kimio_memo at 07:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0) テレビ 

2011年09月03日

【BSTBS】「グリーンの教え」鈴木亜久里さん

【鈴木亜久里さん】
この頃ね、ゴルフのレッスン通っているんですけど・・・

【石川次郎さん】
習ってるんですか、ハンデ9のくせに。

【鈴木亜久里さん】
いや、ていうか、ゴルフ(は)上手くなればなるほど、習った方が僕いいと思う。

【石川次郎さん】
すごい所に気がついてますね。
僕、その通りだと思いますよ。

【鈴木亜久里さん】
やっぱり、上手くなればなるほど、自分で「習いたくない」っていう気持ちもあったんですけど、でも、もう習ったら目から鱗のこといっぱいあるし、習わないと、(つまり、)自分で練習場へ一人で行ってゴルフを練習しているのは下手を固めてるもんだな、と思って。

鈴木亜久里さんの「下手(へた)を固めてる」というお言葉は、成る程かつ同感だ。
そうなのだ。
人は、自分自身では、今の自分の下手さに気づき難いし、気づいても認めない。
そして、知らず知らずの内に、恥を上塗りするが如く下手さを上塗りし、固めてしまい、結果、一層気づき難くしてしまう。
物事が下手な人がえてして頑固なのは、人(他者)に忠言を求めず、自分の下手さを自分で固めた一てん末ではないか。

【鈴木亜久里さん】
他のスポーツは何をやっても(ミハエル・シューマッハより)オレの方が上手いんだけど、レースだけはアイツの方が上手かった。(笑)

これは、シューマッハさんの方が、鈴木さんより「下手を固めなかった」ということか。(笑)
鈴木さんの生来かつ終生と思しき「負けず嫌い心」に、感心感動した。


★2011年8月27日放送分
http://w3.bs-tbs.co.jp/green/bn72.html



kimio_memo at 06:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0) テレビ 

2011年09月01日

【NHK】「ディープ・ピープル/ものまねタレント」コロッケさん

【ミラクルひかるさん】
若い頃の方が、やっぱり似てたな、とかってないですか?

【コロッケさん】
こういうと終わっちゃう話なんだけど、俺は(そもそも)「似せよう」って思ってないからね。

(中略)

物真似はね、大きく分けると、コピー派とパロディ派に分かれるのね。
だから、どっちを目指すかだよ。
ただ、長年、色んな方を見てると、コピー派を目指してしまうと、ある時、ちょっと似てなかったりした時に、周りのお客さんって勝手に、「あれ、似てないじゃん、これ。あれ、じゃ、他も本当は似てないんじゃない?」とか、すごいね、恐ろしい状況に陥るんですよ。
「あれ?」みたいな。
ただ、その代わり、パロディー派っていうのは、最初から似てないと、最初から蹴られる場合があるんだよね。
「ふざけ過ぎ」とか、「何やってんの」みたいな。
「気に食わない」とかね。

言い換えれば、コピー派は「技術至上主義」で、パロディ派は「面白至上主義」であろう。
「自分はパロディ派を志向している(=コピー派を志向していない)」というコロッケさんのお考え(=戦略)は、成る程かつ賢明に感じた。

たしかに、コロッケさんが仰った「コピー技術の日々のバラツキ」は、コピー派を志向する上でリスクになろう。
しかし、リスクなら、これよりも、「来るべきより優れたコピー技術者の出現」や「高技術の果ての本物への回帰」の方が、余程リスクになるのではないか。

お客さまが物真似を見る根源的ニーズは、「面白い」という感情(変化)だ。
お客さまは、芝居と同様、物真似を観て「面白い」と感じるのは本望だが、「上手い」と感じるのは本望ではない
コロッケさんが戦略的にパロディ派を志向なさっているのは、コピー派を志向するリスクもさることながら、物真似に対するお客さまの根源的ニーズを重要視、最重視なさってのことに違いない。
コロッケさんが、30年もの長きに渡り、物真似タレントとしてトップクラスに君臨なさっている道理が伺えた気がした。



★2011年7月11日放映分
http://www.nhk.or.jp/deeppeople/log/case110711/index.html



kimio_memo at 06:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0) テレビ