【洋画】「ジキル&ハイド/Mary Reilly」(1996)【邦画】「どん底」(1957)

2018年04月20日

【マーケティング/人生】「影響力の武器 実践編」N.J.ゴールドスタインさん、S.J.マーティンさん、R.B.チャルディーニさん

P107
26 悪魔の代弁者の効用

四百年ものあいだ、ローマカトリック教会では聖職者の候補を選ぶ際には「悪魔の代弁者(※)」を使っていました。候補者の生活と仕事に関するあらゆる問題点を調べあげ、教会に報告させたのです。資産を評価するときに細かく調べるのに似ています。悪魔の代弁者の役割は、候補者に不利な内容を洗いざらい明らかにすることでした。これは教会の指導部がさまざまな考えや見方、情報源から、より多くの判断材料を得たうえで意思決定を行えるようにするための制度でした。

(※)訳注
カトリック教会の列聖調査審問検事のこと。聖人になる候補者に対して意図的にあらゆる角度から批判を加え、候補者が真に聖人になるにふさわしいかどうか、その判断材料を出す役割を担う。「人にいちゃもんをつける人」という意味でも使われる。

実業界で働く人は「ビジネス」と「聖人」との間に共通点があるとは思わないかもしれませんが、悪魔の代弁者方式は経営者にも貴重な教えを授けてくれます。その教えとは、チーム全員の意見が最初から一致しているようなときは、問題を別の観点から見るように促すと、往々にしてよい結果が得られるということです。集団思考や集団極性化(グループ内の多数派意見が、議論を重ねるほど極端な方向へ進む減少)による壊滅的な影響が心配される場合は、これはさらに重要なポイントになってきます。

グループのなかに全員一致を乱す者が一人でもいた場合、そのことでチーム内の創造的、複合的な考え方が喚起されることは、社会心理学者の間では以前から知られていました。しかし反対者の性質については、最近までほとんど研究されてきませんでした。同じ考えの人ばかりのグループで問題解決能力を高めようとする場合、悪魔の代弁者、すなわち、わざと異論を唱える偽の反対者と、本気で反対している本物の反対者では、どちらが有効なのでしょうか。

社会心理学者のチャーラン・ネメスらによる研究の結果から、集団の創造的な問題解決の力を高めようとする場合、真の反対者に比べると、悪魔の代弁者はかなりその効果が劣ることが分かっています。本物の反対者の論拠や見解は一定の原則に基づいているため、大多数のメンバーはそれを妥当であると見なす傾向があり、それと比べると悪魔の代弁者の姿勢は、わざと反対しているようにしか見えないからだそうです。たいていの人は、本気で反対していると思われる相手に対しては、なぜそれほど自信をもって反対しているのかを理解しようとします。その過程で、問題への理解が深まり、より広い視野から検討を加えられるようになります。

では、悪魔の代弁者はもう時代遅れなのでしょうか。現に1980年台には、法王ヨハネパウロ二世は公式にカトリック教会におけるこの制度の運用を廃止しています。しかし実際には、悪魔の代弁者がいることで、大多数のメンバーは自分たちの考えに対する自信を失うどころか逆に深めることができることが証明されています。恐らく、あらゆる代替案を検討した〈そしてそのうえで却下した〉という確信がその理由だと思われます。それに、代替案が却下されたからといって、悪魔の代弁者が何の役にも立たないというわけではありません。大多数の人が心を開いて代替案の検討を行うかぎり、悪魔の代弁者は異なる考えや見方、情報に対する注意を喚起することができるのです。

これらのことから読み取れるリーダーにとっての最善の策とは、多数派の見解に対して同僚や部下が安心して反対意見を言えるような職場環境を作り、その状態を維持することです。
異議が個人的なものではなく仕事上のものであるかぎり、複雑な問題に対する革新的な解決策の発見や、従業員の意欲の上昇などの効果が現れます。最終的には利益も増加するでしょう。ただし、決定による影響が長期的かつ広範囲におよぶ場合は、本音で反対する人も重要です。私たちが間違った方向に行きそうなときに、見識のある人が積極的にそれを知らせてくれれば、見せかけではない本物の議論を通じた深い理解が得られるようになります。そして、最善の決定を下して最大限効果的なメッセージを発信できるようになるのです。

政府が「働き方改革」を推進している。
対象の労働は金銭対価のそれであり、基本、民間のそれである。
それをオカミがどうこう言うのは、一事業家として閉口するばかりだが、結局、彼らの企みは「ザル法」的には達成しても、本来目的的には達成しないだろう。
なぜか。
近因は、彼らの政治生命基盤である「経済界」の支持が得づらいからだが、根因は、我々日本人の思考習性に「生産性」、「質(⇔量)」の概念が乏しいから、挙句、労働、および、経済活動の肝である「最善努力」を誤解しているから、である。
要するに、我々はDNA的に努力の「量」を向上させる意義と可能性は信じていても、「質」を向上させるそれらは信じていないのである。
日本人の考える「最善努力」とは、経験、ないし、前例のあるプロセスを「時間と体力の限り」ひたすらやること、なのである。
本来の、自分の頭で思考&意思決定した「最善のプロセス」を「必要最低限量」粛々とやること、ではないのである。
たとえば、ケンカの勝率を高める(笑)べく、腕立て伏せを毎日50回から100回に増やし、腕力を倍増する、といった具合である。
ケンカに勝つには本当に腕力をあげるのが早道なのか、はたまた、だとしても、腕力の増強に本当に腕立て伏せが有効なのか、また、だとしても本当に何回やるのが適切なのか、等々検証も再考もロクにせずに、である。

民間企業における会議の本来、および、一番の目的は、経営幹部がこの「最善努力」を見極め、意思決定することである。
それを部下に得心させ、「他の選択肢の消滅『空気』」を醸成する、もとい(苦笑)、コンセンサスを形成するのは、下位の目的である。
もし、これが真に一番のそれなら、それは「アリバイ会議」である(し、その場合、経営幹部は事前に「最善努力」を独力で思考&意思決定している必要があるし、その場合、高コストを投じて会議を開催する必要が真にあるか次善に熟考する必要がある)。
しかし、日本の企業の会議の過半は残念ながらこの「アリバイ会議」である。
なぜか。
近因は、経営幹部、とりわけ経営者、が俎上の「最善努力」を選択&意思決定する能力、および、胆力に乏しいからだが、根因は、先述の通り、そもそも「最善努力」を誤解しているから、もっと言えば、「質」、「生産性」を疎んじ、「(最善のプロセスは)走りながら考えれば良い」と外資系企業の良いトコ取り、かつ、事前自己エクスキューズをしているから、である。
ちなみに、かつて外資系企業で働いた経験から言うと、たしかに、彼らは結構「走りながら考える」を信条とするが、彼らのうち本当に成功する一握りのそれは、あくまで「『実際に走ることで分かることも多く、ひと先ず現時点での最善のプロセスで死ぬ一歩手前まで走り、真のそれは』走りながら考えれば良い」である。
当たり前である。
最善のプロセスは基本、次善のプロセス、すなわち、当時の最善のプロセス、の更新の賜物であるのだから。

たしかに、日本の企業の過半は「悪魔の代弁者」の意義&効用に懐疑的だが、それは以上の理由に因るものである。
繰り返せば、そもそも経営者が「会議」の本来目的を誤解し、「悪魔の代弁者」ならではの複眼的選択肢の意義&可能性を信じていない、と。
そして、「最善努力」を誤解し、「最善のプロセス」の意義&可能性を信じていない、ということである。
「堀さん、オンナは(オトコとの相談話で)問題を解決したいのではなく、問題にうなづいて欲しいだけなんですよ」。
かつて私は親友にこう諭されたが(笑)、たしかに、日本の「悪魔の代弁者」は、凡そ経営者と女子に無用の長物認定され、でき得る「逸失利益」&「逸失幸福(?・笑)」の抑止に貢献できていない。







kimio_memo at 07:31│Comments(0)書籍 

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