2011年07月24日

【BSフジ】「あの時、この曲」林哲司さん

【林哲司さん】
上田(正樹)さんが、あの個性的な声でですね、綺麗なバラードを歌ったらどうなるかっていうのは、ちょっと自分の中でやってみたくて、やっぱりその前に、ジョーコッカーが「You are so beautiful」という曲があって、それはやっぱり凄く綺麗な曲なんですけど、当時(その曲が収録されている)アルバムを買って、こういうアプローチもいいなぁっていうのがお手本としてありましたからね、まあ、自分も何かそういう方向でいきたい、みたいな所があって、で、綺麗なバラードを書いて、まあ殆ど、英語が乗るようなイメージで自分は(「悲しい色やね」の曲を)書いたつもりだったんでね。



DREAM PRICE 1000 上田正樹 悲しい色やね
上田正樹
ソニー・ミュージックハウス
2001-10-11


【くり万太郎さん】
じゃ、曲が先ですね。

【林哲司さん】
曲が先ですね。

(中略)

【林哲司さん】
(出来てきた)詞を見せられないで、いきなり、まあ、自分がやっていましたスタジオの方にディレクターが来て、で、ウォークマンからですね、「こういう曲があがったから、ちょっと聞いてくれないか」っていうことで、聞かしてもらったんですよ。

【くり万太郎さん】
歌は入っている曲?

【林哲司さん】
仮歌が入ってまして。
で、聞いて、何となく「ああいい出だしだな」って思ってたんですけど、関西弁が出てきた瞬間、「泣いたらあかん」、その瞬間から、自分が思い描いていたバラードの瞬間というのは瓦解しまして・・・(笑)

【くり万太郎さん】
やっぱり、それは、関西弁っていうイメージじゃなかった?(笑)

【林哲司さん】
なかったですね。(笑)
殆どスマートなバラード書いたつもりでいましたから。
まさか、こういう詞がはまってくるとは思わなかったんで。
正直、「この曲ダメだな」って思いました。(笑)

(中略)

【林哲司さん】
これは、シングルカットされたっていう段階で、それは一抹の喜びはあるんですけど、まあヒットしないだろうなっていう気持ち。(笑)

【くり万太郎さん】
そうだったんですか。

【林哲司さん】
それくらいインパクト強かったですからね。(笑)

【くり万太郎さん】
関西弁がね。
よっぽど嫌だったんですね。(笑)

(中略)

【くり万太郎さん】
でも、それがヒットしたじゃないですか。

【林哲司さん】
ですから、逆にあの曲をシングルカットしたっていうスタッフの英断が素晴らしかったんじゃないかなと思うんですよね。

【くり万太郎さん】
それは、レコード会社側がってことですか?

【林哲司さん】
そう、レコード会社ですね。
で、ホントにこの曲が自分にとって意味合いのある、或いは、いい曲だっていう、いい曲というよりいい歌ですね、そういう風に思えたのが、渋谷の町を歩いててですね、僕らは凄くナルシチズムででしてね、出来上がっているものっていうのは、ホントに好きな曲は、もう20回も、30回も、スタジオから帰ってきて、聞いたりするんですよ。
で、また飽きちゃって次のものを追い求めるような所が自分はあるんですけどで、この曲は(シングルカットされても)殆ど聞かずに、で、中古屋かどっかだと思うんですけど(この曲が)流れてきた時に、ふと足を立ちどめて、こう聞き入ったんですけど、その時ですね、いい曲だと思うようになったのは。

【くり万太郎さん】
(ということは、シングルが発売されて)かなり経ってから・・・

【林哲司さん】
かなり経ってからですね。
ヒットしてからだと思うんですけど。
で、自分自身がそこで教えられたのは、ホントにいいメロディーを書こうっていうことに集約してたんですけど、やっぱり歌っていう意味合いを考えて曲は書かなきゃいけないんだと。
それは、もちろん、僕たちが詞を書くわけじゃないんですけど、作曲家は作曲家なりに、最終的な詞はわかりませんけど、自分の一つのイメージの中で、詞がはまるっていうことも含めてね、言葉の整理、メロディーの整理をしたりとかですね・・・それが最終的に歌い手の人たちが息吹を入れることによって、一つの歌になっていくっていう構図が、もうあの曲を通して、強く自分の中で感じて、ただ、いいメロディーだけを書くっていうことではないんだぞっていうことが、なんか自分でわかったような気はしましたけど。

【くり万太郎さん】
この曲のヒットによって、それから先の林さんの曲作りみたいなことに多少・・・

【林哲司さん】
そうですね。
「曲を書く」っていうことではなくて、「歌を書く」っていう気持ちに変えなきゃダメなんじゃないかなっていう・・・

【くり万太郎さん】
大きいことですね。

【林哲司さん】
大きいことですね。

たしかに、依頼者(お客さま)が作曲家に直接請い、達成を希求するのは、「いい曲を書くこと」だ。
しかし、依頼者がレコード/CDの制作で一番に達成を希求するのは「いい歌(→売れる歌)を作ること」だ。
ゆえに、依頼者が作曲家に真に請い、達成を望んでいるのは、「いい曲を書くこと」ではなく、「いい歌を書くこと」であり、作曲家は「いい歌を書くこと」を一義に励まねばならない、ということだ。
私たちは、つい、この考えを忘れてしまう。
そして、自分に直接請われていること、しかも、当時の林哲司さんのように、「自分が考えるいい曲」を書くことに励んでしまうが、それはやはり誤りということだ。

ただ、林さんが、「自分が考えるいい曲」を書くことに励まれたのも、無理からぬことではある。
もとより「洋楽大好き(→歌詞よりも楽曲重視)少年」で、プロとして曲を作り始めるや否や、ビルボードの93位にランクインしたり、竹内まりやさんや松原みきさんに書いた曲がヒットするなど、早々に成功を体験なさっているからだ。

若くして培った価値観と成功体験は、諸刃の剣だ。

一つ意外なことがあった。
それは、「悲しい色やね」のシングルは林さんの予想外にヒットしたものの、林さんは最初の内「いい曲」だとお感じにならなかったことだ。
やはり、林さんからすれば、自分の価値観を損ねた成果物は、ビジネス的には成功しても個人的には評価の対象外、ということか。
また、プロフェッショナルの林さんからしても、「いい曲」と「売れる曲」は違う、ということか。

余談だが、本記事を書いている最中、林さんが曲を書かれた松原みきさんが逝去なさっていたのを知った。
すぐさま名曲「真夜中のドア」を聴いたが、やはり最高だ。



松原みきゴールデン☆ベスト
松原みき
ポニーキャニオン
2011-02-16


大変遅くなってしまったが、松原さんの冥福を祈念したい。
(敬礼)



★2011年7月16日放映分
http://www.bsfuji.tv/top/pub/anotoki.html



林哲司は作曲家としての活動を中心に活躍し、80年代以降の音楽シーンに、1500曲以上を提供してきたヒットメーカー。AORやソフトロックを感じさせる新しいJ-POPを確立した林だが、初めてのヒットチャートへのランクインは日本ではなくイギリスとアメリカというのも彼らしい。    1982年に上田正樹のシングルとしてリリースされた「悲しい色やね」は、有線放送から火がつき、発売から9カ月後にオリコンチャート5位を記録。作詞家・康珍化との黄金コンビが誕生した記念すべき1曲でもある。大阪弁の詞を読んだ時の第一印象や、すでに強烈な個性を確立していた上田正樹に対してどのような曲作りを意識したかなど、当時を振り返る。


kimio_memo at 07:51│Comments(0)TrackBack(0)テレビ 

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