2020年02月20日

【洋画】「コクーン2 遥かなる地球/Cocoon: The Return」(1988)

[ひと言感想]
「親が先に死ぬのが順序だ」とのベンの言は成る程、かつ、尤もである。
私の専門は企業経営だが、経験値を重ねてつくづく思うのは、企業だけでなく、家族も、社会も「システム」であり、肯定的に存続するには「エコシステム」の構築(と不断の改修)と運用、即ち、担保が欠かせない、ということである。
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」というが、これは個人の存在が期間限定的な軍隊や企業でのみ通用する話であり、非限定的な家族や社会では「老人が先に死ぬのが順序」である。
人間が永遠の命を欲するのは道理だが、現世が故人を要するのも道理である。


コクーン2/遙かなる地球 [DVD]
出演:ドン・アメチー、ウィルフォード・ブリムリー、コートニー・コックス
監督:ロン・ハワード
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2008-09-05

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2020年02月18日

【洋画】「コクーン/Cocoon」(1985)

[ひと言感想]
人間が愚かな理由の一つは、無くしてみて初めて「その」コト、モノ、ヒトのあり難さに気づくからである。
翻って言えば、いつでもアクセスできると「その」コト、モノ、ヒトのあり難さに気づかない、当然視してしまうからである。
あり難さは正に「有り難さ」、そして、「在り難さ」であるという訳だが、更に愚かなのは、一旦無くすと、或いは、無くしかけると過剰に「その」コト、モノ、ヒトをあり難く感じるからである。
健康、命はなぜあり難いのか。
本当にあり難いのか。
長寿の選択肢と可能性にアクセス可能な我々現代人は、平時、この自問自答を済ませる必要がある。


コクーン [DVD]
出演:ドン・アメチー、ヒューム・クローニン、ブライアン・デネヒー
監督:ロン・ハワード
20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント
2003-12-19




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2020年02月10日

【邦画】「火宅の人」(1986)

[ひと言感想]
立川談志は落語を「業の肯定」と言ったが、それを地で行ったのが桂一雄の生涯である。
「業の肯定」は「開き直り」であり、「現実逃避」である。
現実に生きる周囲には迷惑千万だが、引き受け手が居ないこともないからこの世は面白い。
なぜ彼、彼女たちは引き受けるのか。
結局、当人を憎み切れないからである。
なぜ憎み切れないのか。
自分にはない非常な無責任さ、純粋さ、人間臭さに、同じ人間として降参してしまうからである。
「業の肯定」は極めてこそ、である。


火宅の人 [DVD]
出演:緒形拳、原田美枝子、松坂慶子、いしだあゆみ
監督:深作欣二
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)
2016-06-08




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2020年01月31日

【経済】「父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。」ヤニス・バルファキスさん

P231
エピローグ 進む方向を見つける「思考実験」

(前略)

HALPEVAMの欠陥ーーユートピアをつくるシステムがディストピアを生む

幸せ探しは、金鉱を掘り当てるのとは違う。金は、われわれが何者かということとは関係なく存在する。われわれが金を掘る過程で何者になるのかも関係ない。輝く物質が本物の金かどうかは、実験で証明できる。でも何が本当の幸せかは証明できない。

HALPEVAM(※ユーザーの望む最高の仮想現実人生を個別提供してくれる、天才科学者コスタスがつくったコンピュータ)が与えられるのは、われわれがいまの時点で望んでいるものだけだ。
しかし、本物の幸福を味わえる可能性のある人生とは、何者かになるプロセスだ。ギリシャ人はそれをエウダイモニアと呼ぶ。「花開く」という意味だ。エウダイモニアの過程で、人の性格と思考と好みと欲望はつねに進化していく。

私は十代の後半から二十代の前半にかけての自分の写真を見て、当時執着していたことや、好きだったものや考えていたことを思い出すと、恥ずかしくて穴があったら入りたくなる。当時の好みや欲をずっとかなえ続けてくれる世界に、自分は住みたいだろうか?
とんでもない。

人の人格や欲しいものはどうして変わるのだろう?簡単に言うと衝突があるからだ自分の望みを一度に全部は叶えてくれない世界と衝突することで人格ができ、自分の中で葛藤を重ねることで「あれが欲しい。でもあれを欲しがるのは正しいことなのか?」と考える力が生まれる。われわれは制約を嫌うけれど、制約は自分の動機を自問させてくれ、それによってわれわれを解放してくれる。

つまるところ、満足と不満の両方がなければ、本物の幸福を得ることはできない。満足によって奴隷になるよりも、われわれには不満になる自由が必要なのだ。

世界と衝突し、葛藤を経験することで、人は成長する。
HALPEVAMは人間に奉仕するために開発されたとしても、結局は人間をディストピアの中に閉じ込め、人の嗜好を固定してしまい、その中の人間は成長も発展も変身もできない。

経済について書いたこの本の中で、この話にどんな意味があるのだろう?

HALPEVAMの目的はつまり、市場社会が成し遂げようとしていることなのだ。それは、欲を満たすことだ。

だが世の中には不幸が充満しているところを見ると、市場社会はうまく機能していないようだ。何が言いたいかというと、いまの経済は、人間の欲する目標を手に入れるのに適していないどころか、そもそも手の届かない目標を設定したシステムなのだ。


自由とショッピングモールーーいったい何を求めればいいのか?

アメリカ人作家のヘンリー・ディヴィッド・ソローは、「幸福になるには、それを求めないことだ」と言った。幸福は美しい蝶のようなものだ。「追えば追うほど逃げていく。しかし別のことに気を取られていると、そっと肩に止まっている」

では、死ぬほど幸福を手に入れたいのに幸福を追い求めてはいけないとすると、何を求めればいいのだろう?

君には君の答えを見つけてほしいが、君が考えているあいだに、私の個人的な考えを少しここで語ろう。

私が絶対に嫌だし恐ろしいのは、気づかないうちに誰かにあやつられ、意のままに動かされてしまうことだ。たいていの人は私と同じように感じているはずだ。『マトリックス』や『Vフォー・ヴェンデッタ』のような映画がヒットするのはそのためだ。

どちらの映画も、われわれが必要とする自己決定や自立や自由意志の問題を訴えている。奴隷の中でも洗脳されて幸せを感じているのは、最悪の愚か者だ。彼らは足かせをありがたがり、服従の喜びを主人に感謝する。

市場社会は見事な機械や莫大な富をつくりだすと同時に、信じられないほどの貧困と山ほどの借金を生み出す。それだけではない。市場社会は人間の欲望を永遠に生み出し続ける。

その最たる例がショッピングモールだ。その構造、内装、音楽など、すべてが人の心を麻痺させて、最適なスピードで店を回らせ、自発性と創造性を腐らせ、われわれの中に欲望を芽生えさせ、必要のないものや買うつもりのなかったものを買わせてしまう。そう考えると、どうしても嫌悪を感じざるを得ない。

ほかにも、人を洗脳するものはある。たとえばマスコミだ。マスコミは、大勢の人の利益や地球の利益を犠牲にするような政治判断に大衆の合意を取りつける手段になってしまっている。

そしてもうひとつ、政治信条を人々に刷り込む強力な方法がある。それが経済学だ。


イデオロギーーー信じさせる者が支配する

「支配者たちはどうやって、自分たちのいいように余剰を手に入れながら、庶民に反乱をおこさせずに、権力を維持していたのだろう?」

私はこの本の第1章でそう聞いた。私の答えは「支配者だけが国を支配する権利を持っていると、庶民に固く信じさせればいい」だった。

古代メソポタミアでも、いまの時代でも同じことが言える。すべての支配者にはその支配を正当化するようなイデオロギーが必要になる。ひとつの筋書きをつくって基本的な倫理観を刷り込み、それに反対する人は罰せられると思わせるのだ。

宗教は数世紀にわたってそんな筋書きを語り、まことしやかな迷信で支配者の力を支え、少数支配を正当化してきた。そして支配者による暴力や略奪を、神が与える自然の秩序として許してきた。

市場社会が生まれると、宗教は一歩後ろに下がることになった。産業革命を可能にした科学の出現により、神の秩序を信じることはあくまでも信仰であって、それ以上のものではないことが明らかになった。

支配者には、自分たちの正当性を裏付けてくれる新しい筋書きが必要になった。そこで彼らは、物理学者やエンジニアを真似て数学的な方法を使い、理論や公式を駆使して、市場社会が究極の自然秩序だという筋書きをつくりだした。世界一有名な経済学者のアダム・スミスはそれを「神の見えざる手」と呼んだ。このイデオロギー、つまり新しい現代の宗教こそ経済学だ。

19世紀以来、経済学者は本を書き、新聞に論説を投稿し、いまではテレビやラジオやネットに出演し、市場社会のしもべのようにその福音を説いている。一般の人が経済学者の話を聞くと、こう思うに違いない。
「経済学は複雑で退屈すぎる。専門家にまかせておいたほうがいい」

だがじつのところ、本物の専門家など存在しないち、経済のような大切なことを経済学者にまかせておいてはいけないのだ。

この本で見てきたように、経済についての決定は、世の中の些細なことから重大なことまで、すべてに影響する。経済を学者にまかせるのは、中世の人が自分の命運を神学者や教会や異端審問官にまかせていたのと同じだ。つまり、最悪のやり方なのだ。

ヤニス・バルファキスさんの主張は尤もである。
そう、不満は短期的には自我との葛藤だが、中長期的には自我の再認識、そして、人的成長の好機である。
人生に制約、不満は付き物であり、また、あって然るべきである。

幸福の要件は満足だが、満足の要件は不満である。
不満の無い現在は、なにか物足りない、或いは、なぜか不機嫌な未来の温床である。







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2020年01月07日

【洋画】「マネー・ピット/The Money Pit」(1986)

[ひと言感想]
そう、家も、人間関係も、「目に見える」表層は壊れて然るべきで、「見えない」基礎こそ肝なのである。
基礎さえ壊れなければ、表層はいつ、いかに壊れようと、結局直せる、何とかなるのである。
頑丈な基礎づくりは、屈指の人智であり、普遍の努力対象である。


マネー・ピット [DVD]
出演:トム・ハンクス、シェリー・ロング
監督:リチャード・ベンジャミン
ジェネオン・ユニバーサル
2012-11-02


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kimio_memo at 07:25|PermalinkComments(0) 映画 | -トム・ハンクス出演作

2019年12月26日

【洋画】「シャイニング」(The Shining」(1980)

[ひと言感想]
ジャックが凶行に及んだ一因は欲求不満だろう。
実現したい自己が無理だから、欲求不満になるのか。
それとも、そもそも思考習性が無理だから、実現中の自己に欲求不満しかないのか。
ジャックがいずれかはさておき、無理の無知は人を傷つけるトリガーである。
論理思考、および、道理からの遊離は、人の終わりの始まりである。


シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン [DVD]
出演:ジャック・ニコルソン、ダニー・ロイド、シェリー・デュバル、スキャットマン・クローザース
監督:スタンリー・キューブリック
ワーナー・ホーム・ビデオ
2010-04-21





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2019年12月17日

【邦画】「野火」(1959)

[ひと言感想]
人間と動物を分かつ最たるは理性と言うが、理性は平時の賜物である。
普通の暮らしをしている人間に遭いたい」。
田村はこう平時を求め尊厳死した訳だが、現実、戦時という最高非常時では無理ではないか。
理性は限定的である。
人間は困ると何をしてかすか分からない、生来不明かつ脆弱な生き物である。
我々が非常時、正体に逆襲されたくなければ、平時、理性を過信せず、非常時を能動的に回避することである。


野火 [DVD]
出演:船越英二、ミッキー・カーチス、滝沢修
監督:市川崑
KADOKAWA / 角川書店
2015-10-30



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2019年12月03日

【洋画】「ジャッカルの日/The Day of the Jackal」(1973)

[ひと言感想]
警官のルベルより犯罪者のジャッカルに肩入れするのは、感情移入の挙句である。
なぜ、ジャッカルに感情移入するのか。
ジャッカルの方が知的に一枚上手だからである。
ジャッカルが「家内制手工業」ならぬ「個人制手工業」(?・笑)だからである。
人物評は、属性や所業より実力と生き様に依存する。


ジャッカルの日[AmazonDVDコレクション]
出演:エドワード・フォックス、マイケル・ロンズデール
監督:フレッド・ジンネマン
NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
2018-03-20




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2019年11月15日

【邦画】「ひろしま」(1953)

[ひと言感想]
人が不幸を免れないのは、とりわけ他者の不幸を学習しないからである。
なぜ学習しないのか。
重篤であればあるほど忌避、他人事視するからである。
想定したくないからである。
脳内メモリを無駄に消費したくないからである。
不幸は、身勝手かつ横着の自業自得である。


独立プロ名画特選 ひろしま [DVD]
出演:月丘夢路、岡田英次、山田五十鈴、加藤嘉、広島市民
監督:関川秀雄
紀伊國屋書店
2013-07-27






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2019年10月04日

【人生訓】「友情 平尾誠二と山中伸弥「最後の一年」」平尾誠二さん

P167
第3章
平尾誠二×山中伸弥「僕らはこんなことを語り合ってきた」
テーマ3 人を叱る時の四つの心得

チームワークは「助け合い」じゃない

山中
ラグビーはチームプレーを考える必要がありますね。それがきちっとできるチームが強くなっていく。

平尾
そうですね。

山中
僕は中学時代から八年間柔道をやって、ラグビーをやったのは大学時代のわずか三年間。そのあとはトライアスロンやマラソン、趣味でちょっとゴルフをしたりと個人競技ばかりだから、「自分さえ頑張れば」っていう気持ちがあるんです。

平尾
僕の勝手な考えですけど、ラグビーはチーム競技か個人競技かっていった時に、実は個人競技の部分が圧倒的に多いと思うんです。
たとえば、チームワークという言葉の概念を日本人に訊くと、だいたいの人は「助け合い」ときれいに回答しはるんですね。どっちかというと美しく語る。でも、チームワークというのは、実はもっと凄まじいものやと思うんです、。いちばん素晴らしいチームワークは、個人が責任を果たすこと。それに尽きるんですよ。

山中
なるほど。

平尾
そういう意識がないと、本当の意味でのいいチームはできない。もっと言うと助けられている奴がいるようじゃチームは勝てないんです

山中
それはそうですね。

平尾
助けられている奴がいるってことは助けている奴がいるわけです。その選手は、もっと自分のことに専念できたら、さらにいい仕事ができるんです。
強い時のチームっていうのは、助けたり助けられたりしている奴は一人もいない。どの選手も、プロフェッショナルとしての意識が非常に高くて、本当に貪欲に挑み続けて、できなかったらそのことに対して最大限の努力をしていく。それが、一人一人の選手が持たなきゃいけないチームワークとしての姿勢だと思うんです。

山中
なるほど。

平尾
それがなくなってきた時に、チームとしては弱体化しはじめるんです。甘えはよくない。プロフェッショナルな気持ちを持つことが大事。だから強いチームって、意外に一人一人が仲いいことはないんですよ。日常的には一人一人が自分のペースをしっかり持っていて、普段はそんなにベタベタ仲良くしてないんだけれども、いざという時には、ある目的に関してプロフェッショナルな仕事をするという意味でね。

山中
僕はそういうレベルに到達する前にラグビーやめちゃったんですけど。
神戸大学医学部ラグビー部にはなくて神戸製鋼ラグビー部にあるのは、一人一人がトライするためにいちばん確率が高いプレーは何なのかを、自分で判断していることだと思うんです。自分がこのままボールを持って突っ走るほうがトライの確率が高いか、そこで仲間にパスを出すほうが確率が高いか、そういうことを判断できる人が神戸製鋼には十五名集まっている。

平尾
その通りですね。

山中
僕はその確率を考えず、目の前にボールがあったら死んでも放さない、俺がトライするんやということから脱却しないままにラグビーをやめたので、本当の意味でのラグビーをしていなかった。トライしたのに、バックスの人によく怒られましたよ。
僕からすれば、いちばんゴール近くにいるのはモールでガーッとやっている自分だから、パスを送ってぽろっと落とされるくらいなら、このまま自分がトライに行くほうが確率が高いと思うわけです。だから僕らのチーム、フォワードとバックスがよく言い合いをしていました。

平尾
あまりバックスの連中を信用しなかったんですね

山中
パスしたら落とすんですもの。プレーしてない時には、他の人がトライに行くほうが確率が高そうな時はボールを渡すべきだと思うんですが、いざボールを持ったら放さない。僕のラグビー、それで終わってしまって。すいません、レベルが低くて。

平尾
いやいや、ぜんぜん。そういうプレイヤーもいないと突破できないっていうのは、確かにあるんですよ。チームのバランスもあるよね。皆が球を回してばっかりでもいかんし、どんな状況でも瞬時に判断して一歩でも前に出てやるっていう奴が一人が二人か三人いないと、チームのバランスはよくないと思いますね。

「強いチームの要件は『チームワーク』による勝率の最大化であり、『チームワーク』の要件はメンバー個人の最善努力と信頼担保である。『助けられている奴』は『助けている奴」を必要とし勝利を妨げる『チームワーク』の本質は自己責任の完遂であり、『助け合い』はその挙句(の表層的事象)に過ぎない」。
平尾誠二さんのチームワーク論は尤もだが、なぜ「チームワーク」は「助け合い」と凡そ誤解、周知されているのか。
近因は、「スクールウォーズ」もとい(笑)、日本人が本意、不本意を別に「ソトヅラが良く」、「キレイゴトの好きな」人種であることなのだろうが、根因は、土居健郎さんが説いた我々の過剰な「甘え(受身的対象愛)」ではないか。
「甘え」は禁断の果実である。




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kimio_memo at 07:34|PermalinkComments(0) 書籍